現実的な理想主義GPLv3-Conferenceリポート1(4/5 ページ)

» 2006年01月30日 16時30分 公開
[八田真行,japan.linux.com]

GPLv3の目標

GPLv3が達成すべき目標としてモグレン氏が挙げたのは、筆者の考えでは以下の4点である。

  • 可用性 (usability)
  • 明快さ (clarity)
  • 可読性 (readability)
  • 国際性の向上 (international reach)

 ストールマン氏が強調した2点と、モグレン氏が述べたこの4点を念頭に置いてGPL2とGPLv3を比較すると、彼らが第一ドラフトで実現したかったことがよく見えてくるのではないかと思う。また、GPLv3はこれらの基準に照らして議論・評価されることになるだろう。

 例えばドラフト冒頭の第0節、「Definitions」を見てほしい。一読後、なぜわざわざ分かりきったことまで定義しなおしたり(例えば「covered work」)あるいはよく知られた概念の代わりに新しい概念を導入したり(「copying」や「modification」の代わりに「propagate」など)するのだろうと思ったのだが、モグレン氏によればこれには二つの意図がある。一つには、定義を明確化・具体化し、冗長になっても紛れがないように説明を尽くすということ。これはclarityやreadabilityに資するわけだ。英語が母語ではないわれわれには長くなればそれだけ分かりにくくなることが多いのでややピンと来ないのだが、確かに下手な簡潔は明快さとトレードオフになることもある。

 もう一つは、頒布(distribution)のように非常に一般的な用語ではあるが、著作権法という文脈では特定のニュアンスがべったり張り付いていて、しかも国によって法的な意味が微妙に異なるようなものを極力排したいということだ。これをモグレン氏は「著作権法の用語から事実に基づく(factual)な用語への切り替え」あるいは「著作権文化フリーな記法 (copyright-culture-free notations」と表現していた。また、これによりinternational reachが高まることも期待できる。GPLv3は米国の法律家によって書かれたものであり、同士ても米国の著作権法を暗黙のうちに前提としてしまっているところがある。これに対し、Creative Commonsのように各国版の(nationalized)ライセンスを用意して国際性を高めるというアプローチも考えられるわけだが、GPLv3では従来どおり英語版のみを正式なものとし、しかし解釈については各国の著作権法に引きつけたものを積極的に認めよう、という方向を狙っているようだ。こういった方策がうまく機能するかどうかは、筆者にはまだ良く分からないのだが…。

 個人的に関心があったのは、現行のGPL2に存在する「抜け穴」をどのように塞ぐのかということだった。例えば有名なGPL2の抜け穴として、“software performing remote service” loopholeと呼ばれるものがある。これは、「ネットワーク上のサーバでソフトウェアを実行し、なんらかのサービスを提供する」というような利用形態においては、ソフトウェア自体の「頒布」が発生しないのでGPL2の条項がうまく機能しないという問題だ。典型的には、GPLが適用されたWeb日記システムがあったとして、それによる日記サービスを提供する企業のことを考えてみてほしい。こういった企業がウェブ日記システムに改変を加えても、ソフトウェアの頒布が発生しないので改変した部分のソースコードを公開する必要はないのである。かつてはハードウェアやネットワーク的な制約によってこの種のものはあまり一般的ではなかったのだが、現在では非常にポピュラーな形態といっても過言ではない(例えばAjaxを用いたウェブアプリケーションなどもこれに該当するだろう)。この問題についてはすでにさまざまな議論があり、一部でGPLv3のプロトタイプと目されていたAffero GPLにもこの抜け穴を塞ぐための条項が盛り込まれていた(第2項d)が、下手をするとライセンス間の互換性が損なわれてしまう恐れもあった。そこで今回のGPLv3第一ドラフトでは、ソースコードの公開を無条件で義務付けはしないものの、ソフトウェア作者が前記のような形態を取る改変者に対してソース公開を求めやすくできるような選択肢(mustではなくmay require)を設けるということで落ち着いたようである(ぱっと見には分かりにくいと思うが、今筆者が述べたことを頭においてAffero GPLの第2項dと比較しつつドラフト第7項dを読んでみて欲しい)。これは、現在すでに自由なソフトウェアを用いたビジネスを展開している企業などには極力影響がでないようにする、という「Do No Harm」(Rationale 1.1)の原則から導かれた結論であろう。じゃあDRMはどうなんだ、という話にもなるわけだが……。このほかにも、第7項には従来Guileのライセンスのように「GPL+例外規定」というような形で逃げることが多かったライセンス間の互換性の問題に、より整合的な解決策を与えようとする幾つかの選択肢が含まれており、今後のGPLv3にまつわる議論の一つの焦点となっていくのではないかと思う。

 GPLv3は「契約」ではないということが明確に打ち出された(第9項)ことも注目に値する。今まで、GPL2が契約か契約でないかで世界的にさまざまな議論があった。少なくとも米国では、ソフトウェアライセンスはライセンシーの契約受諾に関する意思表示が明確でない、という理由で契約ではなくライセンサーの一方的な権利不行使表明であるとする考え方が一般的のようだ。今回のような「明確化」が図られたのはそれが理由ではないかと思うが、日本ではまだソフトウェアライセンスが契約かどうか明確な結論は出ておらず(筆者の感触では「どっちでも良い」)、南米からの参加者と話をすると、南米ではすでに裁判所のレベルでソフトウェアライセンスは契約であるという判例が出ているらしい。ここも今後議論を呼ぶポイントになりそうである。

 ほかにも細かい点として、GPL違反が発覚した際すぐ契約を終了させるのではなく、違反者に通報後60日の猶予を与えること(第8項)や、原発や病院などバグが重篤な結果をもたらしかねない環境での自由なソフトウェアの利用に関して、無保証を巧妙かつ明確な形で宣言すること(第18項)などが挙げられるが、これらの大半はすでに運用のレベルでは非公式とは言え慣行となってきたことでもあり、それほど新味のあることではないだろう。ちなみに反ソフトウェア特許がらみの条項については、筆者は大筋で賛同するものの文面や技術的には若干の疑問がある。GPLv3とソフトウェア特許の関係については後日稿を改めてまとめてみたい。

 モグレン氏の話でひときわ印象的だったのは、話が第12項に差し掛かった辺りである。いみじくも第12項には、「プログラムの自由か死(Liberty or Death for the Program)」という副題がついている。こういった表現をライセンスに入れることの是非はともかくとして、DRMやソフトウェア特許に降伏(surrender)するよりは、ソフトウェアは死を選ぶべきだと言い切る強固な意思には恐れ入るばかりだ。しかし、このブレのなさこそが、筆者がFSFを大筋で信頼する大きな理由なのである。その一方で、単なる理想主義、教条主義に逼塞するのではなく、このようなカンファレンスや一連のプロセスを通じて常に現実における有効性を追求しようとするあたり辺りがまたいかにもFSFらしい。ストールマン氏はかつてGNU Projectの基本方針を「現実的な理想主義(Pragmatic Idealism)」と表現していたが、まだまだ荒削りとは言え、強烈に自己主張しつつもぎりぎりまで現実とのすり合わせを図るというGPLv3第一ドラフトの二枚腰は、まさしくFSFの面目躍如といったところだろう。

 モグレン氏の講演が終わると、ただちに質問の嵐が始まった(そもそもあまり自由なソフトウェアについて理解していないような人の的外れな質問も多かったが)。例えばDRMに関して、バイナリにGPGなどでサインしていないと動作させない、というようなセキュリティ機構はDRMではないのか、という疑問が出た。ほかにも商標や、Linuxカーネルを搭載した携帯電話のような組み込み機器の問題など、さまざまなテーマが議論されたように記憶している。筆者もderivative workの定義がらみで何か質問したような気がするがあまり覚えていない。議論は白熱するばかりだったが、とりあえずは昼食休憩ということになり、午前のセッションは幕を閉じた。

MIT構内 昼食を求めてMIT構内を彷徨

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