情報社会の真価を引き出す要素 「表現の時代」における手段と目的 第3回

ブログは今後、新しいメディアとして確立しそうだが、人間が把握できる情報がむやみに増えるだけではよくない。ブログはあくまでも手段。ブログをやる人は、そこに表現する目的(対象)に対する技量、つまり「国語力」を磨くことが重要だ。「新世紀情報社会」では、情報の種類や量が増え、その価値が確実に高まっている。だが、その社会が真価を表すためには、多彩な人間的価値とそれらを的確に表現する能力、そしてその情報の価値を高め合える最低限のリテラシーとプラットフォームのすべてがなければならない。

» 2006年06月28日 08時00分 公開
[成川泰教(NEC総研),アイティセレクト]

続かないブログの背景

 「新世紀情報社会」で問われることになったのは、言葉そのものよりも、「考える」「感じる」「想像する」「表す」など情報を処理・操作する領域がより中核であるという「日本語力」つまり「国語力」の本質である。

 その「国語力」の現状はどうなっているのだろうか。向上しているのか。それとも衰退しているのか。やや大げさにいうならば、「新世紀情報社会」の新しいステージである「総表現社会」を支えるのに、十分な資質はあるのだろうか。

 いたずらに懐疑的になったり悲観的になる必要もないだろうが、個人的見解では、マスメディアとりわけテレビの普及が本格化し、さらにそれが今日のインターネットの普及拡大へと変遷してきた流れの中で、「国語力」がプラスの方向に進化したとはどうも認め難いように思える。もちろん、それは敬語の乱れや絵文字のことではない。本を読む時間や人が減ったということも関係するのかもしれないが、それとて本質的な問題なのかどうか定かでない。

 これまでに多くのブログが立ち上がり、今後はより多くの読者を獲得し、新しいメディアとして確立しそうな観がある。しかし、その影で消えていったブログもまた数知れず、だ。

 これまでのブログブームは、手段としての側面が注目されてきた。本当に重要になるのは手段ではなく、表現する内容である。ブログがそうした面でも有効に作用するところはある。しかし、表現や創造性の本質はあくまでも人間系の領域の問題である。

 音楽アーティストを目指す人間が行き詰まったとき、「自分より上手く弾けるヤツはいくらでもいる」というようなことを言う。これは手段の技量に対する自分の未熟さを嘆く言葉だが、実際に彼がぶつかっている壁はそういうことではなく、アーティストとして表現したい内的な衝動の欠乏や、表現手法のオリジナリティが確立できないことである場合が多い。文芸や絵画、写真、映画などでも同じである。

 手段を使いこなす技量より、重要なのは表現する目的(対象)に対する技量であり、「国語力」はその根幹に位置するものである。それがおぼつかないようでは、総表現社会どころか、新たなマス情報チャネルが増えるだけで、多くの人間にとって情報の受容超過の状況はさらに進むことになるだろう。CGM(Consumer Generated Media)つまり「生活者自身による情報発信」)の現状を見る限り、今後そういう方向に進む可能性は決して否定はできない。

 情報社会を迎えて、世の中の情報の種類や量は増大し、その価値は確実に高まった。だからといって、情報の重みが軽んじられることがあってはならないと思う。

 情報社会の目的は、人間が受け取ることのできる情報をむやみに増やすことではない。これまでどちらかといえば軽視されてきた、主体的な情報行動についてもしっかりと意識しなければならない。マスメディアからインターネットへの移行に期待される一面として、そういうことがあるのではないだろうか。

3つの言語のこれから

 ここで、「『表現の時代』における手段と目的」というテーマに関連して、ITビジネスに限らずもっと広い意味で人間が情報社会を生きていくのに何が必要になるのかという観点から、「日本語」「英語」「機械語」という「3つの言語」について考えてみたい。

 まず「日本語」については、「国語力」という意味がそのまま当てはまる。そしてそれは、日本語だけではなく英語など外国の言葉を含め、言葉を使って広く情報を考え、想像し、表現する力と考えていいだろう。

 では、「英語」についてはどうなのかというと、これは万国共通語ととらえ直してみたい。そうすると、そこに「言語によらずとも通じ合い共感し合えるもの」という概念を想定することができる。よく言われることに「スポーツや音楽に国境はない」というのがあるが、まさにその意味するものがこれに相当するのだと思う。インターネットによる自由な情報交換が文字だけでなくさまざまなメディアに波及しつつある状況のいま、われわれは単に情報発信そのものを目的とするのではなく、それによって表現される自分自身の人間的価値をさらに研ぎ澄ますことが重要ではないだろうか。

 最後に「機械語」。これはシンプルに「ITリテラシー」と考えたい。パソコンの生みの親として知られるコンピュータ科学者、アラン・ケイが提唱したような、すべての人間が扱えるプログラミング言語という理念も決して間違ってはいないと思う。しかし、そういう考えに至る以前のこととして、まだ多くのデジタルデバイドが立ちはだかっている。まずは最低限のITプラットフォームとそのためのリテラシーを、できるだけ多くの人に行き渡らせることが先決だろう。

 多様な個性に基づいた多彩な人間的価値と、それらを的確に表現する能力、そしてその情報をオープンに自由に交換し、さらに価値を高め合えるリテラシーとプラットフォーム。それらがそろって初めて、情報社会はその真価を表すのだろう(「月刊アイティセレクト」掲載中の好評連載「新世紀情報社会の春秋 第二回」より。ウェブ用に再編集した)。

成川泰教(なりかわ・やすのり)

株式会社NEC総研 調査グループチーフアナリスト

1964年和歌山県生まれ。88年NEC入社。経営企画部門を中心にさまざまな業務に従事し、2004年より現職。デバイスからソフトウェア、サービスに至る幅広いIT市場動向の分析を手がけている。趣味は音楽、インターネット、散歩。


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