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» 2006年09月08日 09時00分 公開

Focus on People:2人の「お婆さんハッカー」にインタビュー(前編) (2/3)

[Joe-Barr,Open Tech Press]
SourceForge.JP Magazine

 そんなマシンとともに時間を過ごすうちに、今後一切コンピュータにはかかわりたくないと強く感じたわ。事実、卒業するときには根っからの工業数学者になっていたわ。数学のシミュレーションなんかを実行するために毎日使っていたとはいえ、コンピュータを理解しようなんて思ったことは一度もなかった、それは間違いないわ。わたしにとってコンピュータを使った作業は困難の連続で、マシンから結果を得るだけでも大変な仕事だった。

 世の中で一番辛いことのように思えたし、こんな仕事をして生きていく人の気が知れなかったわ。やがて大学を卒業し、IBMでコンピュータの物理的なコンポーネントの摩耗パターンを顕微鏡で分析するハードウェア技術者の職に就いたの。

 顕微鏡による故障解析に関する作業には興味深いものが多かったけれど、わたしは当時結婚していて、その給料だけではやりくりが大変だったので、Stanford Medical Schoolでも手伝いをしていたわ。IBMの技術者としての稼ぎは1カ月に683ドルで、空き箱を家具代わりに利用しても生活費が足りなくなった。もっと実入りのよい仕事を探さなくてはと思いながら新聞の求職欄を見たけれど、高収入が得られる唯一の仕事が、プログラマーというこのひどい職業だったのよ。

 指導役だったIBMの上司に相談に行くと、彼は「君がここを出て行こうと考えてくれるのはとてもうれしいよ。ここに残っていてもね……」と言っていたわ。すでにわたしはうわさになっていて別扱いを受け、次の世代を担うIBMの大スターとして知られていました。それこそがわたしが目指そうとしていた進路だった。指導者は「これでお別れだ」といって次のように話してくれたの。

 「実はHewlett-Packardで極秘の取り組みが進んでおり、彼らはコンピュータ事業に参入しようとしている。もしよければ君を紹介しよう」とね。こうして彼がわたしをHPに送り出したのは1966年のこと、HPに職を得たわたしは、HPのエンジニアリングラボで唯一のプログラマーになった。でも本当のところは、自分をプログラマーだとは考えていなかった。

 それにしても、「次世代の大スター」として期待されていたためか、IBMを退社するのは簡単ではなかったわ。だから結局、退職者面接ですべてをCレベルにするのに3日もかかってしまった。最後の面接には3時間かかり、もう名前は忘れたけれど、その面接者はたぶん部門の最高責任者だったと思う。わたしは言われたことすべてを正確に記録していた。もしIBMに残りたければ、そうしてしたでしょうね。

 上司はこう言っていた。「だめだ、だめだ。君はスターなんだから、チームにいてもらわなくては困る」ってね。わたしは「いいえ、そのつもりはありません」と答えたわ。驚いたことに、彼らはわたしの知らないところで組織の再編を行っていた。人々は解雇され、役割が変わり、異動させられた。だからわたしがIBMを出て行く際には大きな波紋を引き起こしたわ。1966年2月のことだった。

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