その頃、東急ハンズでは新たな動きが起こっていた。当時、IT物流企画部長を務め、後にリテール特化のITソリューション企業、ハンズラボを立ち上げる長谷川秀樹氏が、情報システムの内製化を推進していたのだ。
現場の業務プロセスが分かっている人材をエンジニアに仕立て、真に使えるシステムを構築したいと考えていた長谷川氏は、店舗スタッフと話す機会を増やし、これはと思う人材をどんどん異動させていた。その流れで藤倉さんにも、IT課への異動の話が降ってきた。
ITに関しては全くの素人で、しかも30代後半で初めてプログラミングを習得する――。誰もが「さぞかし大変だったのでは」と思うだろうが、藤倉さんは笑顔で当時の状況を語る。
「いきなりのことだったので、もちろん戸惑いはありました。でも、『心機一転、新しいことができる』という好奇心のほうが大きかった。実際に、それまでの異動の中で一番楽しかったんです。何も知らなくて当たり前、一年生からやり直す、みたいな環境で、何を聞いても恥ずかしくない。そういう環境で、ゼロからプログラミングを覚えていくことが本当に楽しくて。
『こうプログラムしたら、こう動く』というような、ロジック通りにきちんと動くところも気持ち良くて。きっと性に合っていたんでしょう。売り場では、一応見込みは立てますけど、予想通りにならないことも多いですから」(藤倉氏)
すっかりプログラミングのとりこになった藤倉さんは、店舗から異動した他のメンバーも自分と同じくらい新しい仕事を楽しんでいるものと思っていたが、そういうわけではなかったようだ。
「ハンズラボができた当初、僕らは東急ハンズから出向していたんですが、その後、ハンズラボに転籍するかどうか聞かれた時、店から異動してきた人は全員、手を挙げると思っていたんです。でも、実際に手を挙げたのは僕を含めた数人で、それ以外のみんなは、いつか店舗に戻りたいと思っていた(笑)。すごく楽しくやっていると思っていたので意外でしたね」
藤倉さんは時々、「あの時の異動がなかったら、あのまま店舗での仕事を続けていただろうか」と考えるという。“販売員からエンジニア”という型破りなジョブチェンジは誰もがうまくいくわけではないが、藤倉さんにとっては、自身も気付かなかった新たな可能性を見つける転機となった。
エンジニアに転じてから2年半ほど、藤倉さんは東急ハンズ内のシステム開発を担当した。例えば店舗で販売員が携帯する業務用端末をiPod touchへ移行するにあたり、そのアプリケーションを作ったりした。その際、藤倉さんら元販売員の業務知識が、開発スピードやユーザビリティの向上に大いに役立ったという。
「通常のシステム開発では、要件定義のところにとても時間がかかりますが、店舗出身の僕らの場合、“自分たちが使いたいものを作れば良かった”ので、とても早かったんです。『この数字はすぐに見えるようにしてほしい』とか、『この画面からこの画面にパッと遷移できたら便利』といった、売り場で使う人のニーズはかなり反映できたと思います」(藤倉氏)
使いやすい画面のデザインを考えることが楽しくなった藤倉さんは、フロントエンドの開発に積極的に取り組むようになったという。
「僕はとても面白いと思ったのですが、他に画面側をやりたがる人はあまりいなかったんです。だからフロントエンド側を頑張れば重宝されるし、がんばった分だけ人より先にいけるので、よく勉強しました。勉強したことがすぐ生かせるので、本当に楽しかったです」(藤倉氏)
エンジニアの世界は、「35歳定年説」が話題になるなど、若手が有利といわれることが多い。定年説を上回る年齢でエンジニアになった藤倉さんに、これからどんなエンジニアを目指すのかと問うと、「今みたいな状態がずっと続けばいい」という謙虚な答えがかえってきた。
常に新しいことを学べ、それを生かせる仕事があり、システム開発の会社としては非常にホワイトな職場環境に満足しているそうだ。
話を聞いていると、藤倉さんはキャリアに関して受け身の姿勢ながら、直面する変化に対して食わず嫌いをせずにチャレンジし、余計なプライドも持たず、素直に向き合ってきたことが分かる。その結果、たどり着いたのがエンジニアという天職だった。
従来の成功者のイメージとは異なるが、実は変化の激しいこれからの時代を生き抜いていくのは、藤倉さんのような人材なのかもしれない。
人生100年といわれるこれからの時代、人はどのようなキャリア形成をしていけばいいのか――。そんな疑問にこたえ、これからの人生戦略を提示する書籍、『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』(リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット著)では、私たちの人生を左右する要素の1つとして「変身資産」という概念が出てくる。
ITの進化が社会を劇的なスピードで変化させ、ビジネスモデルの破壊や創造が次々と起こるこれからの時代には、人が1つの職業だけに従事して生きていくことは難しくなる。そのため、一度社会に出ても途中で新しいことを学び、新しい職業に就くという「変身」をしながら生きていく能力が重要になる。
書籍では変身資産を増やす要素として、未来の自分の可能性に気付くための「自分についての知識」、自分を新しい領域につなげてくれる「多様性に富んだネットワーク」、そして「新しい経験に対して開かれた姿勢」の3つが挙げられている。
これは、異動で自分の可能性に気付き、開かれた姿勢で新しいスキルを身につけてきた藤倉さんの経験と、重なるものではないだろうか。
先が見えない今の時代、藤倉さんにはこれからも大きなジョブチェンジの機会があるかもしれない。その時、どうするのだろうか。
「そういう話が来たら、やるかもしれませんね! 今回の経験があるから、次もきっと挑戦できると思います」――。そう応える藤倉さんの、自信と好奇心に満ちた表情が印象的だった。
(聞き手:後藤祥子、構成:やつづかえり)
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