キリングループのSAP導入から探る「DXをやり抜くカギ」Weekly Memo

キリングループが進めるDXの取り組みは基幹システムの刷新や、キーパーソンにCFOを据えている点など、同じくDXに取り組む多くの企業にとって参考になるところが多々ありそうだ。

» 2025年08月25日 18時10分 公開
[松岡 功ITmedia]

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 企業がDX(デジタルトランスフォーメーション)を進める中で直面する課題には、実は共通点が多い。その課題にどう取り組めばよいか、DXをやり抜くカギは何かを探る上でも、先行事例は大いに参考になる。今回、その点について強く感じた話を紹介し、筆者なりに考察したい。

事業ポートフォリオの変革を支える経営基盤とは

 その話とは、キリンホールディングス(以下、キリンHD)の秋枝眞二郎氏(取締役常務執行役員 CFO=最高財務責任者)が「キリンの事業ポートフォリオ変革とそれを支える経営基盤」と題して、SAPジャパンが2025年8月6日に都内ホテルで開催した年次イベント「SAP NOW AI Tour Tokyo」のキーノートでスピーチした内容だ。

キリンホールディングスの秋枝眞二郎氏(取締役常務執行役員 CFO)(筆者撮影)

 秋枝氏によると、キリングループは「発酵・バイオテクノロジー」をコアコンピタンスとして、「食(酒類・飲料)」「ヘルスサイエンス」「医(医薬)」の3つの事業領域で価値創造を目指している。「多角化を進めているが、飛び地に多角化しようとしているのではなく、全てベースは『発酵・バイオテクノロジー』を活用した事業領域を展開している」というわけだ(図1)。

図1 キリングループの事業ポートフォリオ(出典:「SAP NOW AI Tour Tokyo」キーノート「キリンHD秋枝氏」スピーチ資料)

 その上で、今後については各事業のステージに合わせて適切にリソースを配分し、最適な事業ポートフォリオで持続的な成長を目指すという。その構えを示したのが図2だ。

図2 事業ポートフォリオの今後の見方(出典:「SAP NOW AI Tour Tokyo」キーノート「キリンHD秋枝氏」スピーチ資料)

 秋枝氏は今後のポイントについて、「酒類・飲料および医薬の事業は、長期的に成長を目指すも市場縮小や創薬の開発リスクがあるので不確実性が伴う。従って、キリングループが長期的に継続して成長するためにはヘルスサイエンス事業が極めて重要になると考えている」と述べた。

図3 経営基盤の必要性や求められる要件(出典:「SAP NOW AI Tour Tokyo」キーノート「キリンHD秋枝氏」スピーチ資料)

 そして、同氏は「こうした事業ポートフォリオの変革を進めていくためには、それをしっかりと支える経営基盤としての情報システムが必要だ」と強調し、そうした経営基盤の必要性や求められる要件について図3に示した点を挙げた。

 一方、キリングループのDXは当初、経営基盤の取り組みとは別に、2013年の「デジタルマーケティング部」の発足を機にマーケティング分野でのデジタル対応からスタートした。その後、2020年に設立された「DX戦略推進室」がグループ各社・機能部門のハブとなり、全領域で横断的に取り組むようになった。

 そうした中で、経営基盤の方は基幹システムの老朽化対応に着手して経理・生産・物流の3領域で「SAP ERP」の導入を決めた。そして、2023年には経営基盤の動きも合わせてグループ全体のITとデジタルの組織を統合した「デジタルICT戦略部」が設置された(図4)。

図4 キリングループのDX戦略(出典:「SAP NOW AI Tour Tokyo」キーノート「キリンHD秋枝氏」スピーチ資料)

 秋枝氏は基幹システムの刷新について、「2016年にERPの導入を検討し始めたのは、IT部門のケイパビリティがそれまで使用していた自社開発の基幹システムにおいて、ハードウェアの更新に対応できなくなってきたからだ。このリスクを将来にわたって抱えないように『SAP ERP』を導入し、アドオンを最小限にしてSAPが機能強化すれば当社の業務プロセスも同時に最新のものになるようにしようと考えた。さらに、ERPを導入するに当たって非常に大事なのは、データの持ち方や分類方法を共通化することだ。これが全社のDX推進につながるという信念を持って取り組んだ」と説明した(図5)。

図5 基幹システムの刷新について(出典:「SAP NOW AI Tour Tokyo」キーノート「キリンHD秋枝氏」スピーチ資料)

経営レベルで判断すべき「業務プロセスの変革」

 「ところが、ERPの導入は簡単なことではなかった」

 秋枝氏によると、SAP ERPの最新版「SAP S/4HANA」(以下、S/4HANA)は当初2022年に稼働予定だったが、結局2年遅れになり、追加投資が相当膨らんだ。なぜ、そうなってしまったのか。同氏は、その最大の反省点について次のように述べた。

 「IT部門主導のプロジェクトとして各業務部門とアドオンの業務を削減するすり合わせをしたところ、業務部門としては現状の業務プロセスを変えたくないのでさまざまところで合意に至らず、話がなかなか進まなかった」

 そして、こう続けた。

 「ERPを導入する企業はどこもアドオンをできるだけ減らしたいと考えているが、その判断はIT部門と業務部門によるすり合わせだけでなく、経営レベルで実施することが必要だ」

 同氏によると、この問題はまだ完全に解決したわけではなく、2年遅れで稼働を始めたS/4HANAがその後、間もなくメジャーバージョンアップとなり、残ったままのアドオンの動作テストにまた追加投資を余儀なくされたという。

 こうしたアドオン問題をはじめ、基幹システムの刷新が難しいのは、現状の業務プロセスを変えたくないという業務部門がいわば「抵抗勢力」になってしまうことだ。その核心は「自分たちがやっていた業務が効率化されると、自分たちが必要なくなるから」、すなわち「自分の首を絞めることになるから」だ。

 この点は、筆者もこれまで多くの基幹システム刷新の事例を取材してきた中で、最もよく聞いた話だ。それでもこの深刻な経営問題(IT問題ではない)については、乗り越えてきたところだけが話題にでき、まだまだ多くの企業が苦しんでいるとの印象だ。秋枝氏の話からすると、キリングループもようやく抜け出しつつあるといったところか。

 なお、課題については図6に示すように、他にもグローバルでの統一などがある。

図6 ERP導入の実態と課題(出典:「SAP NOW AI Tour Tokyo」キーノート「キリンHD秋枝氏」スピーチ資料)

 今後のビジョンについてはどんなことを考えているのか。秋枝氏は「もともとITは経営のために入れているのだが、いつの間にやらITに振り回されていることも多い。今回せっかくERPを導入したのにまだまだ使い切れていないと自覚している。その自覚のもと、AIをはじめとして技術革新のスピードがすさまじい中で、それらをいち早く取り入れて先進的なグローバル経営を実施できるように、SAPの力も借りながら、共通化されたデータを基に意思決定を行う強力な経営基盤を構築していきたい」と力を込めた(図7)。

図7 今後のビジョン(出典:「SAP NOW AI Tour Tokyo」キーノート「キリンHD秋枝氏」スピーチ資料)

 最後に、筆者が注目したのは、基幹システムの刷新を含めたDXの取り組みもさることながら、その内容を紹介した秋枝氏がCDO(最高デジタル責任者)やCIO(最高情報責任者)ではなく、CFOであることだ。同氏は自己紹介で、「キリングループの中でさまざまな会社を渡り歩いてきたが、実は財務やITの実務に携わったことはない」とも述べていた。

 ただ、キリングループとして2020年にDX戦略推進室を設立したと先述したが、その前年の2019年にキリンHDの執行役員 経営企画部長に就いた同氏がそうした動きの陣頭指揮を執ったという。そんなDXのキーパーソンをCFOに任命するキリングループの深謀遠慮を感じる人事である。

 というのは、筆者はかねて「CFOはCDOも担って全社変革をリードせよ」と訴求してきたからだ。キーポイントは「データの活用」だ。この訴求については、2024年8月26日掲載の本連載記事「アクセンチュアの提言から考察 『DXから全社変革に向けたCFOの役割』とは?」で述べているので参照していただきたい。

 そうしたことから、今回の秋枝氏のスピーチは「CFOが語るキリングループのDX」という観点でも興味深い内容だった。

著者紹介:ジャーナリスト 松岡 功

フリージャーナリストとして「ビジネス」「マネジメント」「IT/デジタル」の3分野をテーマに、複数のメディアで多様な見方を提供する記事を執筆している。電波新聞社、日刊工業新聞社などで記者およびITビジネス系月刊誌編集長を歴任後、フリーに。主な著書に『サン・マイクロシステムズの戦略』(日刊工業新聞社、共著)、『新企業集団・NECグループ』(日本実業出版社)、『NTTドコモ リアルタイム・マネジメントへの挑戦』(日刊工業新聞社、共著)など。1957年8月生まれ、大阪府出身。

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