病院で生成される膨大なデータの97%が、活用されずに眠っている。この根深い課題に対してAWSは新戦略を掲げて挑む。同社の取り組みと、第一三共、浜松医科大学における導入事例を紹介する。
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Amazon Web Services(AWS)の日本法人アマゾン ウェブ サービス ジャパン(以下、AWSジャパン)は2025年10月7日、ヘルスケア・ライフサイエンス業界における戦略的ビジョン「Journey for 2030 データがつながる、価値を生む」を発表した。
医療や製薬の現場で多様なデータが膨大に生み出されていることは想像に難くない。しかし、病院が年間に生成する50PB(ペタバイト)のデータのうち、実に97%が有効に活用されていないという。
その理由は、「システムや組織ごとにデータのサイロ化が進んでいるから」という、どの業界でも見られる、ごくありふれたものだ。しかし、高齢化が進み、労働人口が減少の一途をたどる日本において、この状況は見過ごせない。
AWSはこの難題にどう挑み、日本の医療・製薬分野にどのようなイノベーションをもたらそうとしているのか。本稿では、その記者発表会の内容を紹介する。
まず、AWSジャパンの堤浩幸氏(常務執行役員 エンタープライズ事業統括本部 事業統括本部長)から、医療データの統合的な活用促進を目指す戦略ビジョン「Journey for 2030 データがつながる、価値を生む」の発表があった。これは、革新的な患者体験の実現に向けた取り組みを戦略パートナーと共に推進するというAWSのコミットメントを明示したものだ。
その根幹には、顧客体験を起点にAmazonがリテール事業をドライブさせてきた「フライホイール型」の成長戦略がある。
Amazonのリテール事業では、顧客体験の向上を追求してきた。これによって自然とトラフィックが増え、Amazonに出店したいと考える事業者が増える。事業者が増えれば、取扱商品が豊富になり、価格競争が生まれ、顧客に還元されるようになる。
この一連の流れをヘルスケア・ライフサイエンス業界に当てはめると、商品は「患者ごとの多様な医療データ」に置き換わる。具体的には、電子カルテやゲノム情報、診療ノート、画像データなどだ。これらのデータを統合できれば、より的確な患者サービスの拡充につながり、患者体験を向上できる。事業者に当たるのは、医療機関や製薬・医療機器メーカーなど。これらの組織がクラウドでつながり、安全にデータを利用できるようになれば、新たな診断技術や治療法の開発も促進される。このホイールが大きくなるほど、AWSのビジネスは確固たるものになる。
「2018年以来、AWSではヘルスケア・ライフサイエンス業界に特化したサービスの拡充を続けており、グローバルの製薬会社トップ10のうち9社がAWSの機械学習基盤を利用している。日本国内でもこの動きは広がっており、これから皆で手を携えてイノベーションを起こしていく」と堤氏は語る。
改めて「Journey for 2030 データがつながる、価値を生む」の中身を見ていこう。医療データには、分子や細胞、臓器、行動データといった患者データがある。別の角度で見れば、電子カルテデータやPHR(パーソナル・ヘルス・レコード)、RWD(リアルワールドデータ:診療や医療現場などで収集されたデータ)といった組織や機関が保有するデータもある。これらのデータについて、前者を「縦」、後者を「横」と置き、縦横の両軸でデータをつなげることが、革新的な患者体験につながるとAWSでは捉えている。
データをつなぐためにAWSが提供する価値は次の4つだ。
さらに、堤氏はヘルスケア・ライフサイエンス業界に特化した生成AIデモ・ツール群である「HealthData x Agent」(ヘルスデータエージェント)の提供開始を発表した。医療機関向けには「退院サマリーの自動作成による業務削減」「放射線読影レポートの患者サマリー自動生成」「AIエージェントによる褥瘡(じょくそう)マットレス選定」、製薬企業向けには「マルチモーダルなデータ解析によるバイオマーカー探索」「AIエージェントを活用したラボオートメーション」「臨床開発プロトコルの自動生成支援」など、計50個のユースケースに対応したデモ動画とツール群を無料で公開。医療・製薬業界で生成AIをどのように活用できるのか、具体的なシナリオで示されており、AWSを活用した実装サンプルとして、すぐに概念実証や本番検証を開始できるという。
続いて、ライフサイエンス業界のAWSユーザーとして、第一三共の山本昌司氏(研究開発本部 研究統括部 研究イノベーション企画部長 兼 研究企画グループ長)が登壇した。
第一三共がAWSを標準クラウドとして導入したのは2018年のこと。当初は基幹業務システムをAWSに移行するところからスタートしたが、近年ではインフラとしての活用だけでなく、創薬研究におけるAIエージェントの活用にまで深化させているという。
その背景には製薬業界が直面している課題が関係している。新薬の開発には9〜16年という長い年月と、数百〜1000億円超という莫大な費用がかかる。にもかかわらず、化合物が新薬になる確率はわずか2万5000分の1。これだけのコストをかけても独占販売期間は最長25年しかない。そのため、テクノロジーの力で「短期間・低コスト・高い成功確率」を目指す研究DXが求められている。
第一三共が推進する「マルチモダリティ戦略」も、研究DXの必要性を高めている。モダリティとは、抗体化合物複合体(ADC)、マルチスペシフィック抗体、低分子化合物、核酸、遺伝子治療といった治療手段の種別のこと。モダリティが多様化すればするほど、革新的な医薬品の継続的な創出を期待できるが、その分、研究プロセスは複雑化し、取り扱うデータも膨大&多様になる。だからこそ、第一三共ではAWSを活用して創薬プロセスをデジタル技術で高度化・自動化することで、モダリティの多様化にともなう課題の解消を図っているのだ。
こうした取り組みの具体例として、2025年1月にAIエージェントやロボティクスを活用した創薬サイクルを実現する「スマートリサーチラボ」を米国サンディエゴに設立。将来的には、蓄積された知見の国内展開を目指している。「AWSとは、研究者の人材育成に向けたオリジナルのプログラム開発も進めている。これからも良きパートナーとして研究DXの取り組みを支えてもらえたら」と山本氏は期待を寄せた。
最後に、ヘルスケア業界のAWSユーザーとして、浜松医科大学の五島聡氏(医療DX推進担当 病院長特別補佐)が登壇。医師不足の課題に直面する静岡県における、生成AI活用の実例を紹介した。
静岡県の人口は約360万人で全国第10位だが、人口10万人あたりの医師の数は全国第39位。四国4県の合計と同等の人口に対し、県内の医学部は浜松医科大学のみだ。静岡県は医師少数県のひとつに数えられている。「限られたマンパワーで県内に医療リソースを安定供給するためには、医療DXが必要不可欠だ」と五島氏は強調する。
その取り組みの一つが、厚生労働省が推進する「電子カルテ情報共有サービス」のモデル事業への参画だ。浜松医科大学は、地域連携医療DX推進ワーキンググループの中核として、経営母体の異なる6つの病院で連携を図りながら、医療情報の標準規格(「HL7 FHIR」)を用いた医療情報の共有体制を構築した。紹介状や検査結果などを電子化して共有することで、患者の利便性向上と医療提供者の負担軽減を同時に実現した。
この取り組みの中で「時間が足りない」「人手が足りない」「デジタル化が進んでいない」といった医療現場における課題が浮き彫りとなった。そこで浜松医科大学は2024年11月、AWSジャパンと「スマートヘルスケア実現に向けた包括連携協定」を締結し、議事録作成や退院サマリー作成といった業務において、現場の声を取り入れながら生成AIを活用した実証実験を進めている。
「医療現場には、文書作成の業務があらゆる場面に存在する。診療内容を記録に残し、患者さんや他科の医師にも分かる形で文書化するのは、非常に手間のかかる作業だ。試しに、マイクに向かって所見を口述してみたら、生成AIが高精度なレポートを作成してくれた。内容をチェックして、問題がなければそのまま確定すればいい。専門医の持つ高いスキルをより多くの人に提供するには、こうした診断補助のための生成AIを積極的に活用すべきだ。これからも『教育・研究・診療』の3本柱で、地域医療の基盤づくりをAWSとともに進めたい」と五島氏は展望を述べた。
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