余剰博士は無用の長物なのか:日曜日の歴史探検
博士課程に進むような方は、基本的に、研究者や大学教員になる以外の道を捨てた――アカポスと余剰博士のバランスが完全に崩壊してしまった現在、博士はアカデミックな世界から抜け出し、その力を発揮することができるのでしょうか。
「高学歴ワーキングプアとは何かを読みましたが、博士号取得者の実態という意味では何をいまさらな話ですし、現実はもっと厳しいですよ」――香坂さん(仮名)はこのように話します。香坂さんは地方の大学を卒業後、都内の大学院に入院し、4年前に博士号を取得されました。
香坂さんは現在、いわゆるポスドク(博士研究員)として、大学に残っています。人文科学を専攻する香坂さんは現在34歳。大学院に進学するのは自己責任である、と前置きした上で、こう話します。
「大学院への入院は、指導教官に誘われたからであったり、あるいは就職が決まらなかったから、という人も中にはいるでしょう。昔と比べれば、大学院に入院するのは簡単ですし、修士を終えて一般企業に就職するのは別に構わないと思います。ただ、博士課程に進むような方は、基本的に、研究者や大学教員になる以外の道を捨てた方であり、研究者として生きていきたいと考えている方が多いと思います。ましてや博士号を取った方であればなおさらでしょう。そうした博士が力を発揮するシステムはまだ醸成されていないように思います」
教員市場におけるポスト不足が指摘されて久しいですが、それに加えて毎年のように増え続ける博士課程修了者。この2つのバランスが崩れているのは火を見るよりも明らかです。一般企業への就職を受け皿にしようにも、そもそも日本の伝統的な年功序列のシステムに博士課程修了者や進路変更を図るポスドクがそぐわないことから、結果として余剰博士の数は増え続ける一方です。もし産業界が真剣に博士の雇用を考えるのであれば、現在の大学院制度そのものを活用し、企業が必要とする博士を自ら育て上げるような施策なども検討すべきではないかと筆者は考えます。
「もちろん、こういう状況は知っていた上で、それでも一人前の研究者になりたくてこの道に進んだわけですから、それについて文句を言いたいわけではありません。ただ、博士がアカポス(アカデミックなポスト)に“就職”できるというのはもう幻想なのかなと思うとさみしいですね。研究職はそれほど多くない上に、大学教員の職もさまざまな力学でなかなかポストが回ってこない。最近では大学の講義を非常勤講師が行うことも珍しくありませんが、非常勤講師の公募ですら、年齢の3倍くらいの数に応募して何とか、といった状態です。高学歴ワーキングプアとは何かで、『非常勤講師や短期雇用のポスドクにつくことを“余儀なく”され』とありましたが、余儀なく、ではなく、そうしたポストですら獲得するのが難しいのです」
最近では、“特任”助教のポストなどが増えたこともあり(『特任』誕生の背景については次回以降で取り上げます)、業績のある若手の博士はそこに収まっていますが、概して研究者にこだわればこだわるほど、苦しまなければならない状態が続いています。
「研究職になれるかどうかは、いわば“棚からぼたもち”のようなものですが、棚の下にいないとぼたもちはキャッチできないのです」と話す香坂さんに、筆者はアカデミックなキャリアパスにとらわれてしまった学生の悲哀を感じます。もちろん香坂さんの言葉だけを取り上げて、これが博士の姿であるというわけではありませんが、学生側も多様なキャリアパスを考慮する機会を意識的に持つようにしないと、いつまでたってもこの傾向は変わらないのではないかと思います。
こうした余剰博士を国策として生み出してきた日本ですが、今度は博士課程の縮小の方向に政策のかじを切り始めました。文部科学省は2009年6月、全国86の国立大学法人に対し、大学院博士課程の入学定員の見直しを求める通知を出しています。大学院そのものではなく、博士課程に限定した見直しを求めていることから考えて、大学院重点化は間違いではなく、博士の活用に問題があったと国が認めているようにさえ思えてきます。
博士号とかけて「足の裏についた米粒」と説くジョークはよく知られています――その心は、「取らないと気になるが、取っても食えない」というものです。香坂さんは、「35歳までやってみて、ダメなら次の道を考える」と淡々と話します。博士がアカデミックな世界以外でその力を存分に生かせる知識社会の誕生を期待したいところです。
参考書籍
この問題を取り上げた、あるいは大学院とアカデミックな世界についての参考書籍を以下に紹介しておきます。興味のある方はご一読いただければと思います。
最先端技術や歴史に隠れたなぞをひもとくことで、知的好奇心を刺激する「日曜日の歴史探検」バックナンバーはこちらから
関連記事
- 高学歴ワーキングプアとは何か
「末は博士か大臣か」――かつては確固たるステータスのはずだった博士。しかし、今日では、子どもが博士になるのを拒む親もいるそうです。高学歴ワーキングプアとまで呼ばれるようになったのはなぜなのでしょうか。 - クレイトロニクスは仮想現実を超越するか
電話やファクシミリ、テレビといった発明が人類のコミュニケーションを進歩させてきましたが、ではその次は? 今回は、仮想現実や拡張現実(AR)といった技術のさらに先を行くクレイトロニクスを紹介します。 - 1ポンドの福音とならなかった超音速旅客機「コンコルド」
コンコルド――もしかすると若い方の中にはこの飛行機を知らない方もいるかもしれません。イェーガーが破った「音の壁」を民間の旅客機ではじめて破ったコンコルドは、1機1ポンドというあり得ない価格で売られた機体でもあります。 - 「音の壁」の向こうから生還したチャック・イェーガー
1940年代、軍用機パイロットが恐れていた悪魔「音の壁」。その壁の向こうに人類ではじめてたどり着いたチャック・イェーガーは、「自分の義務を果たしただけ」と偉業を振り返る最高にダンディーな人物です。 - 無人戦闘攻撃機「X-47B」にゴーストは宿るか
無人の戦闘攻撃機は人的被害を減らすことに貢献しますが、泥沼にはまる危険も備えています。今回は、無人戦闘攻撃機「X-47B」が登場したいきさつとその影響について考えてみたいと思います。 - マインドシーカーから20年目の「ブレイン・マシン・インタフェース」
生体の神経系と、外部の情報機器の間で情報空間を共有するためのインタフェースである「ブレイン・マシン・インタフェース」(BMI)。いつまでも空想の世界だと思っていると、現実に驚くかもしれません。 - 宇宙に飛び出す高専生のピギーバック衛星
子どものころロケット花火が好きだった方であれば、宇宙やロケット、そして人工衛星にひそかな興味を持ち続けているかもしれません。H-IIAロケット15号機のピギーバック衛星として高専生が製作した「KKS-1」、通称「輝汐」は若い力が詰まっています。 - GUI革命を先導している男と先導しかけた「alto」
「マウスでアイコンをクリック」――今でこそ理解できる言葉ですが、それは、1人の男の長く続く革命の成果でもあるのです。1973年に開発された「alto」はその後多くの伝道師を生み出すことになります。 - 海の底にロマンを求めたトリエステ号
これまでに到達した人類の数は、月に到達した人数より少ない――そんな場所がこの地球にも残っています。今回は、約50年前にトリエステ号が挑んだ有人深海探査を紹介しましょう。 - 都市鉱山とレアメタル――現代の発掘現場
わたしたちの生活に溶け込んでいるレアメタル。今、その再利用を巡って盛んに議論が交わされています。現代の鉱床はリサイクルという形で操業されていくのかもしれません。 - 銅」を超えろ――鉄系超伝導体
電子のスピードの減衰もエネルギーの減衰も発生しなくなる超伝導状態。環境エネルギーの切り札として考えられているこの超伝導に鉄系超伝導体が登場したことで、物性物理学界が盛り上がっています。 - Beyond CMOS――有機分子がシリコンを駆逐する日
トランジスタの主流を占めるシリコン系CMOS。このまま高集積化を進めることは困難になりつつあります。半導体業界が1つのコンセプトとして示している「Beyond CMOS」では、シリコンから有機分子に軸足が移っていくかもしれません。 - 鉱石ラジオ――変わらぬその魅力
20世紀初頭に登場し、日常生活に定着する前にその姿を消し去ってしまった鉱石ラジオ。鉱物の結晶を通して電磁波による通信を翻訳するというロストテクノロジーには、わたしたちが忘れかけている何かがあるかもしれません。 - モノからヒトへ――群知能ロボットの進化
精巧に人体を模倣することに成功したロボット。しかし、自律的かつ協調的に行動するには別の研究成果を活用する必要があるようです。ロボットがヒトに進化するには何が足りないのでしょうか。 - 鉄腕アトムの歴史をつむぐ現代の技術者たち
毎週日曜に最先端の技術の今と昔をコラム形式で振り返る「日曜日の歴史探検」。セカンドシーズンは、ロボットに焦点を当てていきたいと思います。鉄腕アトムの誕生からすでに6年以上たっているって、知ってました? - ASIMOまで駆け抜けたホンダのロボット開発
ロボットマニアを自称するなら、和光基礎技術センターは欠かせない存在です。設計と製造をくり返して二足歩行のヒューマノイド型ロボットが世に送り出されるまでには、10年以上の歳月を要したのです。 - 超高層建築物は現代版「バベルの塔」となるか
摩天楼――現代に生きるわたしたちはこうした言葉からどの程度の高さをイメージするでしょうか。東京タワーの3倍以上の高さを目指して開発計画が進められている超高層建築物は現代版バベルの塔なのでしょうか。 - Xの時代――宇宙を進むスペースプレーン
レーガン大統領時代のスターウォーズ計画。子ども心にワクワクしたものですが、それらの技術はさまざまな形で具体化しています。今回は、スペースプレーンの現在と軌道力学での戦闘について考えてみます。 - 到達から探査、そして有人へ――火星探査今昔物語
有人火星探査が発表されて20年がたとうとしています。映画「WALL・E/ウォーリー」さながらに火星で人類を待つ火星探査機は、後どれくらいで人類に再び会うことができるのでしょうか。 - 日曜日の歴史探検:世界各地の巨大な風車が示すもの
何十基もの巨大な風車がぐるぐると回る姿は荘厳です。世界中では再生可能エネルギーのうち、風力発電がコスト的にこなれてきたこともあって普及期に入っています。キープレーヤーの変化もはじまっていますが、日本では……。 - 日曜日の歴史探検:2010年、自律走行車は建機から
無人・完全自律走行は、普通乗用車ではなく、ダンプトラックなどの建機で先に実現されそうです。巨大な鉄のかたまりが無人で動く世界にわたしたちは何か異質なものを感じるかもしれません。 - ようやく蒸気から電磁へ変わらんとするカタパルト
空母から航空機を大空に打ち上げるのに使うカタパルトは蒸気から電磁へと変わろうとしています。甲板に立ちこめる蒸気、という映画のワンシーンも昔話として語られる日が近そうです。 - AndroidはZaurusにまたがるか
15年近くの長きにわたってビジネスマンや玄人開発者に愛されてきたシャープのZaurusが生産を停止していたことが明らかとなった。この間、シャープは何を得て、次に何をしようとしているのかを考えます。 - LZWに震え上がった10年前の人たち
温故知新――過去の出来事は時を越えて現代のわたしたちにさまざまな知恵を与えてくれる。この連載では、日曜日に読みたい歴史コンテンツをお届けします。今回は、GIFファイルの運命に大きな影響を与えたLZW特許について振り返ってみましょう。 - “キー坊”にならなかったHappy Hacking Keyboard
キーボードにある「Scr Lock」キー。何のために使うか知ってます? 必要最小限のキーとキーバインドで最大の効果を得ようとした男が15年ほど前のキーボード業界を大きく揺るがしました。今回は、キーボードの未来を切り開いた男、和田英一の物語です。 - エネファーム、今導入すべきか?
日本全体の戸建ての約2600万世帯をターゲットにするエネファームですが、現時点ではまだユーザーから熱い視線を注がれているわけではありません。燃料企業も新しい創エネルギー機器として、数年先を見越した営業体制の強化に努めています。 - エネファーム、覚えておきたい3大勢力
家庭用燃料電池、統一名称「エネファーム」が普及へのステップに入っています。この業界の3大勢力はそれぞれの強みを生かし、この勝負に取り組んでいます。今回は、エネファームの勢力図についてみてみましょう。 - エネファームは何がすごいのか
2009年は、エネファームにとっては普及へのステップの年となりそうです。そもそもエネファームが大きく取り上げられるようになったのはなぜなのでしょうか。今月は、エネファームの謎について迫っていきたいと思います。 - 古くて新しいクレジットマスターの手口
クレジットマスター――響きはかっこいいですが、れっきとしたカード犯罪です。インターネットの初期から存在するこの手口が再び脚光を浴びつつあります。その手口は極めてシンプルですが、その根本的な解決にはまだまだ時間が掛かりそうです。 - メーカーが頭を悩ませる2011年問題
西暦2000年問題からまもなく10年。業界内では、2011年に顕在化するとみられる問題に頭を悩ませるメーカーがいたるところで見られます。今回は、2011年問題と呼ばれるメーカー泣かせの問題についてみていきます。 - 高電圧直流給電――データセンターは交流から直流へ
データセンターにかんするトピックは、今、IT業界で注目を集めるトピックの1つです。データセンター全体のエネルギー効率を改善する動きが盛んですが、その1つの方法として、これまでの交流給電に代わり、直流給電を用いようとする動きが活発化しています。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.