前回坂口啓二は、営業の基になっている会社の仕組みが重要であることに気付き、在庫管理や生産方法の知識なしに新営業支援システムはうまくいかないことを学んだ。そんな成長を見せる坂口だが、新営業支援システムを進める中で思いもよらぬ反対勢力が現れ、苦戦する。また、周りでは恋の予感もし始めるが……。
坂口は、新営業支援システムのキックオフミーティングの後、毎晩電子会議室をのぞいていた。坂口が予想していたとおり、いままでと同様で書き込み件数は少なかったが、営業の松下真樹と深田祐子の提案に福山雅人が応答していた。
松下 「いまのサンドラフトに欠けているのは、情報の共有だと思います。営業活動は、日報に記録されますが、営業課員が上司に提出してそれで終わり。その内容が、ほかの課員に伝えられることはありません。新しい営業支援システムでは、顧客情報や、新規顧客獲得の成功事例などのノウハウのデータベースを作り、営業課員が外出先からPDAで閲覧できるようになれば、便利だと思います」
このいかにも松下らしく問題点をストレートに表現している書き込みに、坂口は共感が持てた。
深田 「そうですよね。特に営業の人ってあまり情報交換してないですよね。ノウハウを教えたら、営業成績がほかの課員に負けてしまうとでも思っているのかしら。だとしたら、なんだか器が小さい話ですよね。お得意さまのお誕生日みたいな顧客情報を入れておいて、訪問したときに『お誕生日おめでとうございます!』なんてあいさつしたら、感動ものでビールを多めに注文してくれるかもしれませんよね! あと、総務からの事務連絡や給与明細なんかがPDAから閲覧できたり、経費の精算がPDAからできたりすれば、さらに便利ですよね」
ほとんどの営業部員は、情報交換が必要であることを自覚しているのだが、社内にいるときには事務処理が忙しく、ほかの部員と話す時間を取れないのが現実である。「誕生日のあいさつ」のような提案は、若い女性らしい心遣いで坂口には思いもつかない発想だった。また、営業部員は、経費精算は社内にいるときにまとめてやるのが常であり、給料日前には財布中にほとんど現金がないということをよくぼやいている。中には3カ月も経費精算をためて、経理担当から怒られる者もいた。
福山 「松下さん、深田さん。システム担当の立場からコメントします。PDAからデータを検索するためには、多くのレコードがヒットした場合でもある程度のレスポンスタイムを確保するために、トラフィックを少なくする工夫が必要になるかもしれません。社外から社内のデータベースサーバにアクセスするわけですから、セキュリティを確保する必要もありそうです。本人認証はもちろんですが、通信データの暗号化も必要でしょう。それに個人情報保護法の問題もあるので、誕生日が誰でも閲覧できるのは問題じゃないでしょうか。給与明細を載せるには個人ごとのポータルも必要になるでしょう。経費精算の機能も付けるとなると、既存の会計システムとの連携も必要です。このように、これらの機能を実現するには、解決しなければならない事項がたくさんあります。費用もかなり掛かると思います。確かにノウハウの共有は有効かもしれません。でもシステムに興味の薄い、うちの社員にどれだけ活用されるのか疑問ですね」
システム担当の福山らしく、専門的な分野から問題点を指摘していた。坂口も、いまのままでは社員に活用されるとは思えず、ユーザー教育の必要性を感じていた。
深田 「システムを導入するって、なんだか大変そうですね」
松下 「そんなこといっていたら、何もできないわよ。サンドラフトの売り上げを伸ばすことが一番大事だということを、忘れてはいけないわ」
このやりとりを見た坂口は、彼女たちがプロジェクトのことを真剣に考えてくれていることを実感し、「なんだか面白くなってきたな。やりがいがありそうだ。でも、岸谷さんや藤木さんの書き込みがないなぁ……。仕事が忙しいのかな」と1人つぶやいていた。そんな坂口を見た水元は、「この人は転勤してきてから頑張り過ぎているのでは?」と思っていたのだった。
水元 「坂口さん。何をぶつぶつと独り言をいってるの?」
坂口 「いやいや、何でもないよ! ちょっとプロジェクトのことを考えていたんだ」
水元 「坂口さんも、たまには息抜きが必要よ。ねぇ、これから飲みに行きましょうよ! 六本木で良いお店見つけたの。坂口さんもきっと気に入ると思うわ。ねぇ、いいでしょ!?」
坂口 「う、うん……」
水元 「そうだ、谷田さんも誘っちゃおっと! 彼女も『そのお店に行きたい!』っていっていたし。それと浜崎課長も。スポンサーがいた方がいいでしょ。じゃあ、7時に1階のエレベータホールに集合ね!」
水元優香はそういい残すと、生き生きとした顔で足早に坂口の元から去っていった。そしてその夜、4人は六本木を歩いていた。
浜崎 「おぉー。六本木に来るのは久しぶりやなぁ。あぁ、あれが六本木ヒルズか!? ふぅーん。夜やのにヒルズとはこれいかに? なんちゃって! ねぇ、優香ちゃん?」
若い女性2人に挟まれながら六本木の街を歩く浜崎雅則はとても上機嫌だった。浜崎は東京で営業をやっているので、仕事中はできる限り標準語で話すようにしているが、生まれも育ちも大阪なので、プライベートでは関西弁でしゃべる。常日ごろからウケを狙う会話を心掛け、阪神タイガースをこよなく愛す! というバリバリの関西人だ。今年は阪神タイガースがシーズンを通して好調であり、先日にはセ・リーグ優勝もしたので、ダジャレも仕事も絶好調である。
水元 「えぇー。何ですかぁ、それ?」
そんな浜崎の発言を初めて耳にした水元は、目を丸くして尋ねた。
浜崎 「こう聞かれたらな、『ノッペリ顔やのに、彫(ホリ)エモンというがごとし』って答えるんや! ところで、優香ちゃんのお勧めの店はどこや?」
水元 「こっちですよ、課長。今日はよろしくお願いしますね」
浜崎 「何のこっちゃ?」
浜崎は、水元が浜崎の懐だけを当てにして誘ったなどとは夢にも思ってもいなかったのである……。
水元 「いいから、早く!」
水元に先導されて4人が足を踏み入れた場所には、若いカップルがあふれていた。つい先日まで仙台にいた坂口は、上京して初めて味わう雰囲気に圧倒されてしまっていた。
谷田 「坂口さん。どうかしました? 顔が引きつっていますよ」
坂口 「え、えぇ、まぁ……。仙台にはこんな店なかったので、緊張しています……」
坂口が緊張しているのは初めて六本木に来たからという理由だけでなく、谷田と並んで歩いているからだ。
谷田 「まあ。坂口さんって、意外とシャイなのね!」
坂口 「シャイですかぁ? 自分では普通のつもりなんですけど……」
谷田 「ところで、プロジェクトはどうですか?」
坂口 「ええ。初めてのプロジェクトなので、うまくいくかどうか不安です」
谷田 「私も陰ながら応援しますよ!」
こんなどこにでもあるような普通の会話が、谷田亜紀子から坂口へのファーストアプローチだった。
坂口 「ありがとうございます!」
ほほ笑みながら優しい口調で語り掛ける谷田に、坂口の心は少し癒やされたが、谷田が坂口に抱いている感情までは察することができないところが、坂口らしいところでもある。こうして、夜も更けていった。
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