六本木の夜を堪能し、リフレッシュした坂口は第2回プロジェクト会議を招集した。坂口は今回の会議で、在庫情報、販売情報、生産情報がリンクした効率の良い物流管理の機能を新システムに組み込むことを提案し、豊若からアドバイスを受けたようにプロジェクトの範囲とシステムの位置付けを明確にしようと考えていた。しかし、定刻になっても、配送センターの岸谷小五郎と製造部の藤木直哉は会議室に姿を見せなかった。
坂口 「水元さん。岸谷さんや藤木さんにも会議の案内を出してくれたよね?」
水元 「ええ。でも、出欠の返事は来ていません」
坂口 「何だって!? それじゃあ仕方ないなぁ。じゃあ、先に始めようか」
あれほどプロジェクトに理解を示していた2人が会議に来ていないことに、坂口は不安を覚えていた。
坂口 「岸谷さんと藤木さんは、まだ来られていませんが、定刻になりましたので、会議を始めたいと思います。前回の会議で各部の意見をまとめていただくようお願いしましたが、いかがでしたでしょうか?」
坂口の問い掛けに、掲示板で提案されたときと同じように、松下が情報共有のためのPDAを、深田がPDAを使っての情報伝達と経費精算を提案した。それに対し、福山があまり積極的でない見解を述べた。
坂口 「岸谷さんと藤木さんが欠席のようですので、私から物流管理機能の提案をしたいと思います」
松下 「えっ!?」
坂口が営業の業務と直接関係のない提案をするということは、松下にとって信じられないことだった。
坂口 「先日、私が担当するお得意さまに賞味期限間近のビールが納品されるという事件が起こりました。原因を調べましたところ、キャンペーンで使う予定のものを間違って配送してしまったようです。ここには2つの問題があります。1つ目は納品されるべきものが納品されなかったということ。2つ目は賞味期限切れ間近のビールが存在したということです。すなわち、配送管理と在庫管理に改善すべきプロセスがありそうです。今回のような事件は、お客さまの信頼を失い、売り上げの減少につながりかねないものです。新営業支援システムに、物流管理の機能を盛り込み、お客さまにいつも新鮮なビールがお届けできるようにしたいと思います。これが当社の強みとなり、売り上げアップにつながると思います」
坂口は、自信満々で提案した。当然メンバー全員が賛成するものと確信していたからだ。
深田 「すごーい。賛成! それ、絶対やりましょうよ」
椎名 「そんなの配送と製造の仕事だぞ。彼らがまじめに仕事してれば起こらないはずだ」
福山 「システムの立場からいわせてもらえば、物流管理はそれだけで十分1つの大きなシステムです。在庫管理や受発注管理、経理システムとの連携などあって、導入に多額な費用が必要となります。新営業支援システムの1つの機能として導入するには、とても大き過ぎます。それに、製造部も配送センターもサンドラフトビールの組織なので、サンドラフトサポートのシステムとして導入するのは問題ないのでしょうか」
こんな福山らしい論理的なコメントに、坂口は反論できなかった。
松下 「そうよ。そんなことよりも、営業の人たちが役立つことを優先させるべきよ。だって、新営業支援システムなんだから」
深田 「そうよね。西田社長は立派なおなかしているけど、いつも出してくれるお金は、とても太っ腹とはいえないものね」
椎名 「今日は、配送センターの岸谷さんと製造部の藤木さんが欠席されていますので、この件の取り扱いは、次回あらためて審議してはいかがでしょうか」
坂口が自信を込めて提出した案は思わぬ抵抗に遭ってしまい、プロジェクトは開始早々、暗雲が垂れ込めてきたのだった……。
会議が終わると、坂口は急ぎ足で自分のデスクに戻り、製造部の藤木に電話をかけた。
坂口 「藤木さん、こんにちは。サンドラフトサポートの坂口です」
藤木 「ああ。坂口君か。今日の会議すっぽかしてすまなかったね」
坂口 「お仕事、お忙しいですか?」
藤木 「相変わらずね。でも、そっちに行けないほど忙しいわけではないな」
藤木の歯切れの悪い回答に、坂口は不安を覚えた。
坂口 「じゃあ、どうして今日の会議を欠席されたのですか?」
藤木 「いや、実はね。新営業支援システムのプロジェクトのことを工場の会議で話したんだけど、工場長が一言、『お前、そんなことやっている場合じゃないだろ? 子会社の営業の手伝いをする前に、在庫管理をしっかりできるように考えろよ』っていうんだ。そしたら製造部長はじめ、工場の部長連中みんなが同調してしまって。とても今日、新営業支援システムプロジェクトのために、ドラフトサポートに行きます、なんていい出せなかったよ。すまない」
予期しない藤木の言葉に坂口はあぜんとした。だが、気を取り直して言葉を続ける。
坂口 「いいえ。藤木さんが悪いわけじゃありません。実は今日の会議で、物流管理システムの提案をしたんです。ほら、この前、賞味期限ぎりぎりの商品がロートンに納品されたことがあったでしょう? どうしてそんなに古いビールがサンドラフトにあるのだろうって考えました。多分、在庫量や消費量などの情報がうまく製造部に伝わってないので、供給過剰になっているのではないかと。だから、そのプロセスを見直して、システム化して適性在庫が微調整できれば、新鮮なビールがお客さまにお届けできるのではないかと」
藤木 「そうだな。君の考えは間違ってないと思うよ。でも、今回のプロジェクトは『新営業支援システム』だろ。工場の連中には、物がなければ商売できないのに、何で俺たちが営業を助けなきゃならないんだっていう考え方が根強いんだよ」
藤木はプロジェクト会議で坂口が物流管理システムの提案をしてくれたことをうれしく思ったが、同時に職場を説得できない自分にむなしさを感じていた。
坂口 「それは、深刻な問題ですね。分かりました。何とかできないものか考えてみます。それでは、失礼します」
電話を置き、坂口はつぶやいた。「人間の感情って、難しいなぁ……」その言葉を耳にした谷田が坂口に声を掛けた。
谷田 「坂口さん。失恋でもしたんですか?」
坂口 「えっ!? 失恋!? うーん。似たようなものかなぁ……」
谷田 「ねえ、坂口さん。たまには食事にでも誘ってくださいよ」
坂口 「えっ、本当に誘ってもいいの!? 谷田さんって、付き合っている人がいるんじゃ……」
坂口から見た谷田は、美人でおしとやか、いつも落ち着いているなど、とてもモテそうであり、すでに恋人がいると思っていたのだ。
谷田 「そうなのよねぇ……。よく恋人がいるように誤解されちゃうんですよ。だから誰も誘ってくれないんですよねぇ」
その言葉を残し、谷田は自分の席に戻っていった。
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