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「ファミリーパソコン」はどこに行った?小寺信良(2/3 ページ)

» 2005年10月24日 14時00分 公開
[小寺信良,ITmedia]

 パソコンで扱える情報の中でプライベートなものといえば、まず思いつくのがメールだ。だが今やメールは、携帯電話を使った方が便利だという人も多い。コミュニケーションツールは、パーソナルでかつ、ポータブルであるものに勝てない。

 ファミリーボタンは、確かにユーザーアカウントの切り替えを自動化してくれる。だがそれでは、誰でもボタン一発でそのユーザーになれてしまう。従ってプライバシーを守るためには、メールやアドレス帳などをパスワードで保護する機能が搭載されていた。

 いくらプライバシーを守るためとは言え、いちいちユーザーを切り替えて、メールを見るために別途パスワードまで入力しなければならないのであれば、普通に自分のパソコンを1台持っているよりもはるかに不便である。それならば、携帯電話のような自分専用のハードウェアを自己管理した方が早い。

 さらに個人的な嗜好情報が、家族一蓮托生で消えてしまっていいのか、という問題もある。これは子供のユーザーアカウントに制限を設けておけば大丈夫、という話ではない。操作ミスで情報が消去されるということはなくても、HDDがクラッシュする可能性は常に存在する。

 このときに失われる情報は、使用者一人の分だけではない。家族全員の分が丸ごと消えてしまうことになる。このようなリスクを考えれば、家族で共有するパソコンには、いつ消えてもいいようなテンポラリ的な情報しか入れられないということになる。

 なにか1つのものをほかの人と共有できる条件とは、利用時間がズレているか、さもなければ共有することそのものに楽しみを見いだす場合に限られるのではないか。ホームシアターで家族揃って映画を見る、というのが夢のお父さんもいるわけだが、こういった考え方は、時間と空間、そして体験を共有すること自体に楽しみを見いだす例である。

パーソナルのリスク

 なんだかんだと遠回しに理屈をこねたが、言葉の意味からすれば「ファミリーパソコン」なんて言うこと自体が意味不明だ。なんたってパソコンのパソはパーソナルのパソなんだから、ファミリーで使うパソコンなら「ファミコン」ではないか。

 かつてコンピュータは中央にドカッとあって、それを時間交代で使ったり、端末から並列処理で使ったりしていた時代があった。そしてそれを一人一人が持てるようになったら、きっと素晴らしいだろう、というところからパーソナルコンピュータの歴史はスタートしたわけである。

 最初から共有することは不便、というところに立脚している上に、AV機能とインターネットのおかげで、パソコンの意味合いが大きく変わってきた。手動でやるとめんどくさい計算をやらせて結果を引き出す「電子計算機」から、知識の引き出しだったりメディア保存機だったりコミュニケーション端末だったりといった、個人の興味や嗜好を反映するものへと変質した。

 Windowsにユーザーアカウントが存在すると言うことは、ハードウェアを共有することを前提に作られているのではないか、という考え方もできる。だがこの機能が導入されたのは、当時Windowsを脅かす存在に成長しつつあったLinuxへの対抗という意味合いもあっただろうし、また本当にハードウェアリソースを共有しなければならない発展途上国への販売を考えた結果なのかもしれない。

 その機能の上に乗っかった「ファミリーパソコン」だったわけだが、自分の嗜好が強く反映されるものを、例え家族であっても共有するのは、どだい無理がある話だったのである。

 また、1世帯がパソコン1台で済まされてしまうよりも、複数台買って貰った方が、商業的にも広がりがあるに決まっている。一度個人所有する便利さを知ってしまったら、元には戻れないはずだ。

 さらにデジタル放送やオリンピックによってテレビ需要が喚起されてしまい、パソコン業界は低価格路線に走らざるを得なくなった。そしてそれらの要素が混じり合った結果、パソコン1人1台時代は着実に実現されようとしている。

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