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コミュニケーション衰退に見るIT時代の終焉小寺信良(2/3 ページ)

» 2006年07月27日 10時00分 公開
[小寺信良,ITmedia]

メタファが意識を変化させる

 先週の記事になるが、はてながテレビ番組表スタイルのRSSリーダーを開発したという話は興味深かった。このリーダーのポイントは、“未読RSS恐怖症”に対してテレビ番組表スタイルをあてがったことである。

 未読が溜まるということは、なにもRSSに始まったことではない。かつてのパソコン通信時代にも、参加しているフォーラムでコミュニケーションが爆発すると、読むのが追いつかないということはよくあった。だがその状態に慣れてしまうと、自分にとってどうでもいい書き込みはスルーできるようになる。

 実はこのような体験は、「情報スルー能力」なるものを身につけさせてくれるのではないかという気がする。過去コミュニティで培われた情報スルー能力を持っていれは、RSSフィードの未読などに対して何の恐怖も感じない。コミュニティの場合は、情報の発信先が一人一人の個人であるわけで、いつ何時自分に向けて話し掛けられているのかわからないスリリングさがある。それをスルーするのである。

 一方RSSフィードは、自分だけに向けて発信されている可能性はゼロである。見ようが見まいが、誰もなんの感知もしない。だがそれに対して罪悪感や恐怖を感じるのは、やはり大量の情報に晒される技量を持ち合わせていないという表れではないだろうか。

 筆者が興味を引かれたのは、そこに対して番組表というテレビ情報に対するメタファを持ち込むことで、この技量のなさを補完しようとする試みにある。つまりテレビというのは「デフォルトでスルーするもの」、「もともと全部は見られないもの」という視点をITの中に持ち込んだというところが、画期的なのではないかと思うのである。

 スルーする、ということは、ある種の情報フィルタリングである。このフィルタリングを、メタファを変えるだけで行なうということは、受け手の意識改革を求めるわけである。

 結局のところ、情報の重み付けをプログラムやアルゴリズムが判断するということは、「ナントカ2.0」でもまだできない。というよりも、それを実現することができるのか、あるいはそれをするのが正しいのかをまず考える必要がある。

 情報の取捨選択を行なうには、まず話が理解できるという能力がなければならない。その特性を持つのはシリコンではなく、人間をはじめとする有機生命体である。したがってそれを「誰か」が行なうのは、情報整理という作業においては正しい。それを自分でやるのか、あるいは誰かがやるのか、である。

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