どうも最近のコラムでは、ITmediaという媒体としてはふさわしくない反デジタル的な内容が多いと思われているフシもあるが、そうではない。いや、まあそうなのかな。これらの考察は、デジタル技術への熱狂的な信奉の根拠がどこにあるのかということを考えている途中なのである。
結局のところ現在のデジタル技術は、アナログ技術の壮大な置き換えを行なっている途中なのだ。黎明期のデジタル技術は、「重い/デカい/電気食う」の3大弱点を背負っていた。今のデジタル技術はそれらをちょうどきれいにひっくり返すことができたことで、そこがメリットになり重宝されている。
技術的な仕組みとしては、人知を越えた革命は大歓迎だが、実際にそれを使う消費者のレベルでは、人間の感覚として理解されるものでなければ使えない。そのインタフェースとしてアナログ時代のものは優れており、結局のところ中味はデジタルでも、実現できることはアナログの範疇(はんちゅう)という形で収まっている。
DX7の例が示すように、人間は10年かかっても、FM音源の非線形性を感覚で理解することができなかった。もっと時間をかければ、それが感覚で理解できる人も生まれるかもしれないが、性急な時代がそれまで待てなかった。
黎明期のデジタルカメラで見えかけていたものは、何だったのか。もしかしたらそこには、デジタルだアナログだということを超えた何らかの価値観だったり、市場だったり、思想だったりしたのかもしれない。
デジタル技術は、人間の感性を追い越すことができる。だがニーズは、人間の感性を追い越すことができない。人間の感性が成長するためには、世代交代のような長い年月が必要なのである。
「手軽、簡単」は、デジタルデータとデジタルガジェットの大量消費を促した。だがそれはもしかしたら、感性の摩耗につながっているのかもしれない。デジタル技術は、あまりにも性急に成果を求めすぎると、人間にとって大事なものを見落としてしまう。
50年前に作られながら、今も十分にその役目を果たすカメラをいじりながら考えることは、現在のデジタルガジェットが同じ年数だけ役に立つか、ということである。デジタル技術が「もう十分」を達成したとき、次に登場すべきものはもう少しスローな視点でなければ、見つけられないだろう。
小寺信良氏は映像系エンジニア/アナリスト。テレビ番組の編集者としてバラエティ、報道、コマーシャルなどを手がけたのち、CGアーティストとして独立。そのユニークな文章と鋭いツッコミが人気を博し、さまざまな媒体で執筆活動を行っている。
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