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知財推進計画が目指す「コンテンツ亡国ニッポン」小寺信良(3/3 ページ)

» 2007年06月11日 08時00分 公開
[小寺信良,ITmedia]
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 では権利者に無断の複製は、すべてが悪なのか。ところがクリエイティビティとは、必ず模倣から入るものなのである。どうもそのあたりが、知財推進計画を見ていると、金さえ突っ込みゃコンテンツが生えてくると思っているフシがある。

 例えば27ページ、「知的財産の創造」の書き出しに、「知的創造サイクルは知財の創造から開始される」と高らかにうたっているが、全然わかってない。知的創造サイクルは、現存資産の模倣と研究から始まるのである。

 例えば作曲にしても、最初は多くの作品を自分で演奏してみて、オリジナルに近づけていく。そして沢山の既成楽曲が弾けるようになったときに、脳の中で繋がるものがでてくる。「あれ、この曲って途中でこっちの曲に繋がらないか?」といった気づきが起こり、それから音楽成立の仕組みを発見していく。これまで音楽を一度も聴いたことがない人間は、音楽を作ることはできない。

 物理物だってそうだ。日本の重要な輸出産業となったカメラ製造も、最初はどこのメーカーもライカを買って分解して、一生懸命そっくりなものを作ったのである。「作ってみた」だけでなく、実際に売っていた。時代だったと言えばそれまでだが、日本だってほんの50年ぐらい前はそんなもんだったのである。

 では実際にオリジナルを作る段になったときに、全くなにも参考にせず、突然天から振ってきたようにアイデアがひらめくのだろうか。そうではない。アイデアは雲の上にあるのではなく、その人が沢山蓄積してきたコンテンツと経験の引き出し、すなわち脳の中にあるのだ。

 よく年配のクリエイターの方が、「突然ストーリーが頭にパーッと……」などと幸せそうにおっしゃるが、それは長年人生を創造に捧げてきて、本当に幸せなのだろうと思う。その浮かび上がった元ネタが何だったのか、あまりにも沢山のものを複合的にひねりすぎて、自分でも分からなくなっちゃってるからである。いや、これは決して悪口で言っているのではない。経験を積むということは、そういうことなのだ。

 一方で若いクリエイターは、まだ記憶も新しいし引き出しの数も少ない。だから創作活動には、常に良心の呵責がつきまとう。左手にお手本を持って右手で作ったものと、頭の中で勝手に混ざっちゃってできあがったものの違いを知っているのは、作った本人だけだ。さらに元ネタからどこまで変えたらオリジナルと呼べるのかは、誰にもどうにも判断できない。

 そしてその元ネタを作った人が、「これはもしかしてオレが作ったアレが元ネタかも……」と気付いても、普通は「まっ、いっか」で済ませるわけである。なぜならば、その元ネタにもまた元ネタがあり、きっとその元ネタの元ネタにもまた、元ネタがあるのだ。もしかしたら3周ぐらい回っていくと、最古のオリジナルと最新のオリジナルが、誰がどう聞いても一緒、ということになるかもしれない。創造のサイクルの中では、「知らないうちに同じになっちゃった」ということは、容易に起こりうる。

 著作権法の非親告罪化が危険なのは、モノの作り方を知らない人間が、デッドコピーとクリエイティブの違いを無視して権力を行使するようになるからである。そのために権利者団体の幹部は、クリエイターなのだという反論もあろう。だがモノの作り方を忘れちゃった人は、最初からそれを知らない人よりも始末が悪いような気がするのは、筆者だけだろうか。

 どこでどう間違ったのか知らないが、知財推進計画は、コンテンツを作る立場の人間をゆっくりと殺していくことになるかもしれない。

小寺信良氏は映像系エンジニア/アナリスト。テレビ番組の編集者としてバラエティ、報道、コマーシャルなどを手がけたのち、CGアーティストとして独立。そのユニークな文章と鋭いツッコミが人気を博し、さまざまな媒体で執筆活動を行っている。最新著作は本コラムをまとめた「メディア進化社会」(洋泉社 amazonで購入)。

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