「大好きなんです! 握手して下さい。サインも……」「いいですよ」
見知らぬ女の子に声をかけられ、かばんをたぐり寄せる。筆ペンを取り出して「初音ミク」のイラストを描き、「ワンカップP」と書き添えて手渡す。
「この歳になってチヤホヤされることになるなんて。自分でも不思議で、信じられない」
愛知県に住む36歳の会社員だが、昨年突然、人気者になった。「ニコニコ動画」に「初音ミク」「MEIKO」で作った歌を投稿したこところ人気を呼び、ファンが付いたのだ。mixiにあるファンコミュニティーには、2000人近くが参加している。
ニコニコ動画に投稿した楽曲のうち1つは、絵本付きでCDになることが決まった。楽曲に付けた動画に描いていたイラストが編集者の目に留まり、一般書籍のイラストを描いたこともある。
初音ミクのクリエイターやファンが集まるオフ会ではいつも引っ張りだこ。名乗ると人が寄ってきて、サインや握手を求められる。名乗らずに忍び込み、機を見計らって名を明かし、みんなで驚かせて楽しむ――なんていたずらをすることもある。「『越後のちりめん問屋のご隠居ごっこ』と呼んでいるのだけど、これが楽しくて」
会社員としての“本当の自分”と、ニコニコ動画の人気者であるもう1人の自分とのギャップに、苦笑することもある。「ワンカップPという別の人がちやほやされているみたいで」
コンピュータ好きの普通の会社員として過ごしてきた。多趣味で、音楽やイラストやプログラミングもかじった。
子どものころの夢はゲームデザイナー。NEC機でゲームを遊び、BASICで自作ゲームを作り、MSXでドット絵や音楽を作った。自作ゲームを雑誌に投稿し、商用化一歩手前の賞をもらったこともある。
だが地元にゲームメーカーがほとんどなく、夢はあきらめた。高校卒業後に今の会社に就職。MacでMIDI音楽を作り、Photoshopで描いた絵をパソコン通信で公開し、オフ会にも参加した。インターネットも早いうちから試し、イラストや旅行の写真を個人サイトにアップしていた。
MEIKOの歌声を聞いたのは偶然。2007年の夏、友人にすすめられて知った「THE IDOLM@STER」(アイマス)が気に入り、ニコニコ動画でアイマス動画をあさっていた時、MEIKOが歌う動画に出合った。
「合成音声で、ここまで自然に歌わせることができるなんて。思いっきり衝撃を受けた」。子どものころ「PC-6001 mkII」の合成音声機能にハマり、声を合成しまくったことがあったが、MEIKOの質はそれをはるかに超えていた。
自分の手でMEIKOを歌わせてみたい。すぐに取り寄せた。題材は何でも良かったから、当時流行していた「エアーマンが倒せない」など好きな曲をMEIKOに歌わせ、ニコニコ動画に次々にアップした。コメントが付き、再生数が伸びるのが楽しかった。
MEIKOの次世代ソフト「初音ミク」も出ると知り、Amazon.co.jpで予約。だが発売日になっても届かない。待っても待っても届かない。待ちきれなくなり、MEIKOでこんな歌を作った。「注文した初音ミクが、発売日から何日経っても届かない」――ゲーム音楽のメロディーに乗せて公開したところ、反響は予想以上だった。
再生やコメント数はぐんぐん伸び、見知らぬ人から“アンサーソング”が投稿された。同じメロディーに、「初音ミクが届いた」という歌詞を載せ、初音ミクに歌わせた曲だった。
それならこちらも答えましょう。なつかしいゲーム音楽の楽曲にひたすら「発売日が過ぎたのに初音ミクが来ない」という歌詞を乗せ、どんどん投稿した。ネタの賞味期限が切れないうちにと焦り、会社から帰宅後や休日に、睡眠時間を削って作り続けた。歌詞や動画にあえて突っ込みどころを残し、コメントを待ったりもした。見知らぬ人とのコミュニケーションが楽しかった。
「ワンカップPの次回作に期待」。動画に付いたそんなコメントからハンドルネームをもらった。「P」はプロデューサーの略で、VOCALOIDやアイマスを使った作品を作るクリエイターへの敬称だ。彼はVOCALOID作家として「P」と名付けられた最初の人だと言われている。
ミクは発売日を10日以上過ぎて届いたが、MEIKOよりも声が伸びず、使いにくくてがっかりした。だが世は初音ミクブーム。ミクで作ると見に来る人の数が違うから、無理して使った。ミクの盛り上がりと、高まる「ワンカップP」への注目を利用し、みんなに聞いてほしいものがあった。
10年以上前、MIDIブームの時代に作ったお気に入りの曲「子猫のパヤパヤ」だ。当時ニフティの「MIDIフォーラム」で発表した曲。MIDIは歌を歌えないから、メロディーだけをアップし、歌詞はテキストで付けていた。ライブで演奏するにも、歌ってくれる人がいなかった。
だがミクとニコニコ動画があれば、歌入りでたくさんの人に聞いてもらえる。パヤパヤのメロディーと歌詞を思い出してミクに打ち込み、ミクのイラスト入り動画を作り、タイミングをはかって公開した(ニコニコ動画へのリンク)。
ミクの絵を描いたことで「ミクファンに媚びてしまった」とも悩んだ。初音ミクはただの楽器だと思っていたし、ミクに“萌えて”いる人たちに違和感を覚えていた。だがミクブームに乗り、パヤパヤが大きな注目を浴びたことには満足した。
1週間後、「ゆき」と名乗る見知らぬ人がこの曲に絵本のような幻想的な絵を付け、ニコニコ動画で公開してくれた。ミクやMEIKOの絵を一切使わず、歌詞の世界を表現し切っていた。この曲がやっと完成したと思った。
その動画は書籍の編集者の目に留まり、CD付きの絵本になることが決まった(「ニコニコ動画で、出口が見付かった」 絵描き兼開発者・24歳)。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PR