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「敵とは何か」 SNSの未来を描く「ガッチャマン クラウズ」のメッセージを解くアニメに潜むサイバー攻撃(5/7 ページ)

» 2018年10月12日 08時00分 公開
[文月涼ITmedia]

F: おそらくカッツェさんの意図は、クラウズを持ったギャラクターが、より「明確な意志を持たず、統制が取れていない欲望に素直な匿名=雲(クラウド)のような暴力的集団」と化することで、実際に海外の暴動時に見るような、破壊と略奪につながります。この事態に付随して、クラウズを持っていない一般のギャラクターも、ネットを使ってあおったり、面白がるようなコメントを流したりしていました。これもまた、カッツェさんによる、意思と実在性を切り離す、つまり匿名化により人々の本能を解き放たせ、無責任な行動に走る群衆(クラウズ)を生み出すテクニックなのでしょう。放っておくと、やがてリアルでの殺し合いの末、星の破滅へと進むわけです。

photo (c) タツノコプロ / ガッチャマン クラウズ製作委員会

混乱を助長するフェイクビデオ攻撃

F: 事態を収拾しようとして、心を入れ替えた総理大臣の菅山さんがGALAXでライブ配信をすると、今度はカッツェさんが菅山総理になりすましたフェイク動画を流し、いったん収束しかけた事態を巻き戻そうとします。

 このフェイク動画は、既に「ディープフェイク」の名で技術としては確立しています。女優の顔をアダルトビデオに移植したり、オバマ大統領に別の人が話していることを移植したりしていて、もはや米国の選挙などで「登場するか否か」ではなく「いつ登場するか」というレベルになっています。

 先述したクラウズの問題も、いずれ遠隔操作できるロボットなどが普及したとき、ロボットを使って現実世界への匿名化された悪意ある行動、という形で登場するでしょう。

 そして、GALAXで起きたようなSNS全体の乗っ取りは不可能だとしても、SNSを扇動の道具として使うことは、既に米国の大統領選挙で行われていると、これまでの連載でも触れてきましたね。というわけで以上がガッチャマン クラウズに見られるサイバー攻撃のお話です。

K: おや、今回は何だかアッサリしていますね。

F: いえ、まだ終わりません。誰が敵なのかという命題に対する答えが出ていません。

クラウズ(雲)の向こうを見通す、無敵のヒーローはじめちゃん

F: ここでやっと、はじめちゃんの登場です。私たちははじめちゃんを見ると「なになにッス」としゃべるボクっ娘で、トランジスター●●●ーで、不思議ちゃんのガッチャマンに思えます。でも、はじめちゃんは「何か違うんスよね〜」といいながら事態対処には当たるものの、他のガッチャマンが敵だと思って戦っていることに、同調して相手を成敗したりしません。アクションがあるから気付いていないかもしれませんが、はじめちゃんは戦わないガッチャマン、いや戦ってやっつけることが解決だとは思わないガッチャマンなのです。

 はじめちゃんは“キャラが立っている”のでそっちに目が行きがちですが、これこそがこのアニメの本質なのではないかと思います。はじめちゃんの中身は、普通に考えれば修行の果てに悟りを開いた僧侶の域にあり、動じない、場に流されない、人の言うこととは関係なく、事の本質を見抜いているという、普通ならこの年齢ではたどり着けないだろう境地にいます。ただ、本人は呼吸するようにそうしているので、修行の果てではなく、たぶん自然体なのでしょう。

K: 確かに、その姿を見ないで行動だけを文字で追えば、達観しているというか、悟っていますよね。

photo 「事の本質を見抜く」はじめちゃん (c) タツノコプロ / ガッチャマン クラウズ製作委員会

F: そして、このはじめちゃんのスタンスが、ネットを取り巻くトラブルやあおり、フェイク、敵対しているように見える物事、それらの中にある本質を見抜き「俯瞰(ふかん)の視点から何を成すべきか考えようよ」という、制作陣のメッセージなのではないかと思います。

 例えば、第1話で敵と思われていた「MESS」という宇宙人も、実はコミュニケーションが取れていないだけで悪意がないのではないかと、はじめちゃんは考えます。街中で急いでいるクルマや人は、その行動に何か理由があるのではないかという視点を、直情径行の先輩ガッチャマン、清音(すがね)君に示します。

 勧誘やあおりにも全くブレず、そして何より、皆が最凶と恐れたベルク・カッツェに対しても、その行動の理由を探るため散歩するような雰囲気で「生身のまま」近づいていく。普通なら、カッツェさんにやられたようにすさまじく罵倒されたり悪意を向けられたりすれば、ひるむなり、警戒するなり、敬遠するなりしますが、はじめちゃんにとっては全く攻撃になっていない。耐える、ではなく無効なのです。そしてカッツェさんの姿にも言葉にも惑わされないで、その向こう側、カッツェさんの心の中を見つめている。彼女からすれば「敵」はいないのです。理解するべき相手がいるだけなわけですね。

 そんな姿を見て、昔、哲学者セネカの「怒りについて」という本を読んだことを思い出しました。読んだ上で「こんなの実践できるわけねぇよ!」と思いましたが、はじめちゃんはナチュラルに実践しているように感じました。

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