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「本格的デジタルアーカイブ」は実現可能か?(1/2 ページ)

» 2022年07月28日 19時13分 公開
[西田宗千佳ITmedia]

 Webメディアやブログサービスが終わって記事が消えることは良いことではない。筆者は常々そう主張してきた。

 それだけでない。SNSの書き込みや映像に音楽、各種ツール群にゲームなどのソフトウェアなど、人の営みとして作られた情報は、できる限り保存されていることが望ましい。

 なぜそうすべきか? それはいつ役立つのか? そのためにはどんな課題があり、どう解決すべきなのだろうか?

 議論を深める足掛かりとして、いろいろと考えてみた。

この記事について

この記事は、毎週月曜日に配信されているメールマガジン『小寺・西田の「マンデーランチビュッフェ」』から、一部を転載したものです。今回の記事は2022年7月25日に配信されたものです。メールマガジン購読(月額660円・税込)の申し込みはこちらから。さらにコンテンツを追加したnote版『小寺・西田のコラムビュッフェ』(月額980円・税込)もスタート。

なぜ「データを残す」必要があるのか

 情報はなぜ残っている必要があるのだろうか?

 実のところ、同時代を生きている人々にとっては、そこまで深刻な話ではない。困るのは困るのだが、人々には「記憶」があるのでまだいいのだ。

 問題は、記憶から薄れ始めたときに生まれる。

 情報があれば確認できるが、残っていないと、不確かな記憶から不確かな情報を再度生み出し、検討する必要が出てくる。たった10年、20年前のことですら、当時を過ごしていない人々が増えてくると、驚くような認識の食い違いが出てくるものだ。

 それでも、当時を覚えている人が存命のうちは、認識を見直すこともできるだろう。しかし、歴史の中の出来事になってしまえば、多くの事実や貴重な作品は失われていく。

 人類が生まれてこのかた、ほとんどの記録は失われてきた。石板や文献として残っているのはほんの一握りのものに過ぎない。

 だが、われわれはテクノロジーを手にした。だから、努力をすれば残すことはできる。後述するが、デジタル化されたデータは簡単に消える。一方、残す努力をすれば、むしろデジタル化以前の時代よりも「残しやすい」のも事実だと考えている。

 1950年代の映画や小説のほとんどは、今はなかなか見ることができない。だが、1970年代になると話は変わる。1990年代ならなおさらだ。テクノロジーの進化と商業化によって、ヒットした一部の作品に限られはするが、その命は長くなった。

 そうした技術や考え方をうまく生かすことで、多くの活動の痕跡・作品を残していくことができるのではないか。商業的に成功したものだけでなく、個人が趣味でネットに残した文章や映像だって、残っていいはずだ。SNSの書き込みからは、当時の風俗の一片が読み取れるだろう。

 これもまた、はるか未来の人類に残せる資産と言えるのではないか、と夢想している。

データ収集の「ルール」はどうするのか

 とはいえ、課題は山ほどある。

 シンプルな課題として、「そもそもデータはどう収集するのか」という点がある。

 話を単純化するため、ここではWebの情報に限る、としておこう。

 いうまでもなく、Web上に公開されているからといって勝手に使ってもいいわけではない。それぞれに権利者がいて、一定の許諾のもとに使われている。まあ、その辺がゆるくなってはきているし、米国のようにフェアユース規定があればさらにゆるくなるのだが、それでもやっぱり、アーカイブ目的だとしても自由には使えない。

 1つ1つ許諾を得るのは不可能に近く、何らかのルールに基づく包括的な許諾体制が必要になる。

 日本の場合、国会図書館が「国立国会図書館インターネット資料収集保存事業(WARP)」を2002年から展開しており、その包括許諾の範囲を民間まで広げればなんとかなりそうだ。

photo 国立国会図書館インターネット資料収集保存事業(WARP)

 ただ、「公開することで収益を得ている」ビジネスの場合、無償収集されたものがリアルタイムに見られ続けると問題が出る。公開開始時期や利用目的などを限定する必要は出てくる。

 短期的な話をすれば、逆に公的な仕組みではなく、特別な仕組みを設けて包括的に権利を得て、収益を得つつアーカイブを維持する仕組みの方が有望かもしれない、と個人的には思っている。

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