虫歯だらけで早死にした徳川“スイーツ将軍”とは?歴ドル・小日向えりの「もしあの武将がネットサービスを使ったら……」(1/3 ページ)

» 2016年06月18日 08時00分 公開
[小日向えりITmedia]

 ビジネスマンの皆さん、お仕事で疲れたときに、無性に甘いものが食べたくなることありませんか? チョコレートなどの糖分を補給すると効果的で、疲れがスーッと取れて、頭が働き始め、身体も心も癒されますよね。

 最近はコンビニで手軽にスイーツが買えるようになり、「スイーツ男子」と呼ばれる甘党な男性がオフィスにも増殖中だと聞きます。スイーツ男子は、女性に敬遠されないどころか、モテる武器になる場合もあります。「最近、どんなスイーツにはまった?」と話のきっかけを作り、「今度一緒に食べに行こう!」とデートの約束を取り付けることも。かくいう私も大の甘党で、スイーツ男子には親近感がわきます。

 歴史上でも、文豪の夏目漱石や森鴎外、剣豪の伊庭八郎などスイーツ男子に分類される偉人がいるのですが、中でも群を抜いているのが、江戸幕府で14代将軍となった徳川家茂です。徳川15代の中で誰かに嫁入りするとしたら、私は間違いなくこの“スイーツ将軍”家茂を選びます。

徳川家の菩提寺、増上寺 徳川家の菩提寺、増上寺

 なぜ家茂はスイーツ将軍なのでしょうか。それを紹介する前に、まずは家茂の短くも情熱的な人生を振り返ります。

派閥争い、政略結婚と波乱万丈

 家茂は1846(弘化3)年閏5月24日、紀伊藩主・徳川斉順の長男として、江戸・赤坂の紀伊藩邸で産声を上げました。幼名を菊千代、後に慶富と名乗ります。

 父や叔父が早世し、わずか4歳で紀伊藩主を襲封します。幼少のころは池の魚や籠の鳥をかわいがるのを楽しみとしていた心優しき少年だったと言われています。

 時の将軍、13代・家定には嗣子がおらず、跡取り問題が起き、慶富は一橋慶喜とともに将軍候補に挙げられます。そのため幕府は「南紀派」と「一橋派」、2つの派閥に分かれました。

 黒船が来航して5年。幕末の騒然とした状況下で、大老・井伊直弼の強力な推挙によって13歳の慶富は14代将軍に就任して、名を家茂と改めました。

 その後、直弼は、桜田門外の変で水戸浪士らに暗殺されました。その2年後、朝廷の権威と幕府および諸藩を結び付けて幕藩体制を強化する「公武合体策」により、17歳の家茂は孝明天皇の妹で、同い年の和宮と結婚します。これは完全なる政略結婚です。

和宮のお墓にて 和宮のお墓にて

 和宮は許嫁に有栖川宮熾仁親王がいて、望んだ結婚ではなかった上、嫁いだ後は武家の生活になじめず、姑の天璋院篤姫と大奥で嫁姑問題が勃発。心身ともに辛い生活を送ったと言われています。

 そうした中、家茂は上洛するたびに江戸で待つ和宮のために手紙を書いたり、プレゼントを贈ったり、懸命に元気付けたそうです。プレゼントのラインアップは、べっこうのかんざしや、着物、さらには金魚といった変わり種も。家茂の優しさや人柄にしだいに惹かれていったのでしょう。また、家茂は「馬面にすらりと通った鼻筋」だったそうで、なかなかイケメンだったのではないかと想像します。

 この二人は仲睦ましい夫婦として有名で、将軍家の中でもベストカップルではないでしょうか。

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