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高卒でプロ野球を戦力外 16年後に「公認会計士」になった男の逆転人生戦力外になった後輩に経験伝えたい(2/6 ページ)

» 2018年11月18日 10時00分 公開
[濱口翔太郎ITmedia]

奥村さんの波瀾万丈の野球人生とは

 野球一家で育ち、2〜3歳ころに自然と野球を始めたという奥村さんは、兄が所属していた少年野球チームに小学2年生の時に入団。1学年上のチームに混ざって練習する中で実力を伸ばしたのち、地元・岐阜県多治見市の中学校で軟式野球部に入部。レギュラーとして活躍した。

 卒業後は、県内屈指の名将として知られる工藤昌義監督が野球部を率いている、県立土岐商業高校に入学。工藤監督の指揮のもと、奥村さんはまず1年生チーム限定の岐阜県大会で優勝。2年生の夏の県大会では、エースとして投げてベスト4入りを果たした。3年生の春の大会では準決勝で敗れはしたものの、プロが注目していた投手と投げ合いを演じ、スカウトの目に止まった。

 3年生の夏の県大会では、初戦で5回参考記録ながらノーヒットノーランを達成。その後も勝ち続けたが、決勝で県立岐阜商業に敗れた。岐阜商業はかつて 1年生限定大会の決勝で破ったチームであり、雪辱を果たされた。

 「広島カープに入団し、いまも活躍している石原慶幸選手に、詰まりながらレフトスタンドにホームランを打たれました。最近は見なくなりましたが、このシーンは20年近くにわたって何度も夢に出てきました」(奥村さん、以下同)

甲子園行き逃すもドラフト指名

 惜しくも甲子園行きを逃したが、これまでの実績を評価し、実は最後の大会前に阪神から入団の打診が届いていた。だが「大会前に知らせたら調子に乗る」との考えのもと、落ち着いた気持ちで最後の大会に臨んでもらうため、監督はあえて伝えなかったという。

 何も知らなかった奥村さんは引退後、社会人野球の名門・JR東海の内定を獲得。入社するつもりでいたある時、監督から「タイガースがお前を指名したいと言っている」と明かされた。

photo 入団会見での奥村武博さん(=左上)。その下が井川慶さん(写真提供:日刊スポーツ)

 「驚きつつも、幼い頃から憧れていた職業なので、内定を断って入団すると決めました。親は『引退後の将来が不安』と反対しましたが、『今しかない』と押し切りました」

 指名された理由を、奥村さんは「即戦力ではなく、コントロールの良さと身長189センチという体格を生かし、将来のエースに育てたいと期待していたようです。右投げの私と左投げの井川で、左右の二枚看板になってほしいとの狙いもあったようです」と振り返る。

 だがプロ入りした奥村さんを待ち受けていたのは、スター街道ではなく苦難の道だった。

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