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麻倉’s eyeで視る“ブルーレイのアカデミー賞”、第8回ブルーレイ大賞レビュー(後編)麻倉怜士の「デジタル閻魔帳」(1/7 ページ)

» 2016年04月04日 09時00分 公開
[天野透ITmedia]

 前編に引き続き、「第8回DEGジャパン・アワード/ブルーレイ大賞」のレビューを、審査委員長を務める麻倉怜士氏と共にお届けしよう。後編は音質・画質のほかに、Blu-ray Discならではのパッケージ性という点が評価されたタイトルがそろった。HuluやNETFLIXをはじめとしたOTT(Over The Top)サービスで手軽に映像も音楽も手に入るようになった時代において、あえてパッケージにこだわる意味を探求したと麻倉氏は語る。そして大賞受賞作は……。

 記念撮影セッションで、今回受賞した各作品の代表者が勢ぞろい。多様な観点からBlu-ray Discを評価する様子はまさに“ブルーレイのアカデミー賞”といったところ

ベスト高音質賞・音楽部門(クラシック) 「シベリウス:交響曲全集/ラトル&ベルリン・フィル」

“3大オーケストラ”の一角として名高いベルリンフィルハーモニー管弦楽の自主制作レーベルから、今回はフィンランドの国民的音楽家であるシベリウスの交響曲全集が受賞。音楽はもちろんのこと、毎回アートワークや映像を含めたトータルパッケージングに手をかけられている

麻倉氏:前回の予告通り、後編はベスト高音質賞のクラシック部門からです。今年はベルリンフィルハーモニー管弦楽(BPO)の自主制作レーベル盤が獲得しました。

――BPOの自主レーベルは確か一昨年からでしたね。グラモフォンやEMIなどで既に多くの名盤を残してきただけに、当時は「あのBPOがなぜ今になってわざわざ自主レーベルを?」という気もしましたが、実際に出てきたものの充実ぶりは「なるほど自主レーベルか」というのに充分なものでした

麻倉氏:昨年はシベリウス生誕150周年のメモリアルイヤーでしたね。BPOを率いるサイモン・ラトル自身も、シベリウスに個人的親近感を寄せているそうです。

 今回のメディアはBDオーディオで、パッケージはCDとBDのセットになったものです。BDには全曲の映像と96kHz/24bitのBDオーディオが入っています。BPOは演奏を192kHz/24bitで収録しており、BDオーディオは96kHzですが、パッケージには192kHz版のダウンロードチケットが付いてきます。

――192kHz版音源がダウンロードというのが、何とも今っぽいですねぇ…… 「ベスト高音質賞」は、やはり現代のBPOらしいカッチリとした透明な音が評価されたということですか?

麻倉氏:今回のBPOは音の良さもさることながら「パッケージ賞」でもあるんです。音にしろ映像にしろ、コンテンツというものはパッケージを手にしてこそ、トータルなエンターテイメント体験ができるというものです。

 本質的な話をすると、音を聴くのにパッケージは不要で、OTTやストリーミング音楽再生といった配信だけがあればいいんです。しかしそれは本当にアートに接している音楽鑑賞といえるのでしょうか? 例えば絵画鑑賞はチケットを買って美術館に入り、ワクワクしながら目的の絵画まで向かうという、ある種の手続きを踏んで「アートとの遭遇」を果たします。オンデマンドでクリック一発即再生というのは確かに便利ではあるのですが、ある程度時間をかけてプロセスを経るという手続きによって期待感を高めることは、芸術鑑賞にとって非常に大事ではないでしょうか。パッケージがあって、開いて出して、プレイヤーにかけるという一連の動作が、アートとの遭遇に対する期待感を演出してくれるのです。

――これはある種のアウラ(Aura = オーラ)の問題ですね。1936年にドイツ人のヴァルター・ベンヤミンという人が「複製技術時代の芸術」という評論で展開した論で、現代の文化論やメディア論に大きな影響を与えた考え方です。

 元々アウラ論は芸術が廉価かつ高度に複製されることで、芸術の空間が持っていた一回性や神秘性を引き剥がし、従来の宗教的価値とは異なった次元に芸術の価値が見いだされる、というものでした。具体的に例えると「最後の審判」を写真に撮って出版することで、システィーナ礼拝堂という空間が持つ神聖さは失われる代わりに、誰でも何度も繰り返し手軽に見ることが出来るという従来とは違った利点が生まれたといった感じです。

 このアウラ論を現代の再生芸術に当てはめると、生演奏とは異なるアウラが再生環境によって生まれると僕は考えています。機器の組み合わせによって無限の音が生まれる自分だけのコンサートホールで音楽を聴くという“複製品が織りなすオリジナル環境”からは、確かにアウラは生まれるはずで、これこそが生演奏には無いオーディオの真髄であると僕は思っています。パッケージをめぐる一連の動作は、そんなアウラを形作る重用な要素になる。ポストモダンや記号論といった別種の問題も孕んでいますが、「アートとの遭遇」というのはそういう事ではないでしょうか

麻倉氏:君の言うように、パッケージが持っているアートワークや手にした時の感触・確実性なども、芸術性をサポートしているのは確かですね。オーディオ趣味というのは、音のよしあしのみで決まるものでは決してないのです。それを強く主張するかのように、BPOのシリーズはメディアとして音と映像を収録するディスク、アートワーク、存在感、ビジュアルというパッケージングにもの凄くこだわっています。そういう意味でBPOが考える「自分たちの演奏を楽しんでもらうための」重用な手段としてパッケージが制作されており、アートの接し方に対する思想が垣間見えますね。

 BPOは「デジタル・コンサートホール」というストリーミングサービスもしっかりと展開していますが、「それとパッケージはどちらも大事」と言っています。世界中の人に自分たちの音楽を聴いてもらえるネットの簡便性には共感しつつも音の良さは当然あり、加えてパッケージだねという話になるのです。

 ところで先日、ダニエル・バレンボイムが立ち上げた配信レーベルの共同記者会見に出席したのですが、その席でマエストロはBPOとは全く違うことを言っていたのが印象的でした。

――全く違う、とは?

麻倉氏:とあるドイツ人記者が「私はパッケージがとても好きで、特にレコード時代の大きなアートワークは見ていてとても楽しいし、解説を読むのも大好きなのだが、そういったことをマエストロはどう思うか?」という質問をしました。それに対するマエストロの返答は「いや、そんなものは全く不要で、音楽だけを聴いてもらえれば私は満足だ」というもので、場が軽く白けたんです(苦笑)。

――あらー……(苦笑)

麻倉氏:この様なことは音楽家にとっての一種の考え方であり、理想であるかもしれないですが、やはりユーザー目線で考えるならば、演奏だけではなく、それを取り巻くさまざまな情報性というものが重用ではないかということを、BPOのコレクションは強く述べていると感じました。

――文学の分析手法に「作家論」「テクスト論」という2種類の対立項があります。前者は「作家の意図・思想はどんなものか」を考えるもので、国語のテストで「この時の作者の考えとして適当なものを選びなさい」という問題は、この分析に基づくものです。先生が映像批評の際によく用いられる「ディレクターズインテンション」という言葉もこれに当てはまりますね。対して後者は「書かれてある文章から何を読み取ることができるか」というもので、テストの問題だと「この時の登場人物(注:作者ではない)の考えとして適当なものを選びなさい」というものがこれに当てはまります。

 マエストロとドイツ人記者のやり取りを聞いていると、両者が見事に割れていると感じますね。記者の意見はあくまで「自分が受け取った情報から何を感じるか」という、テクスト論的なポイントを重視している様に見えます。マエストロはそうではなく「自分が何を発信したいか」という作家論的なポイントに主眼を置いている様に感じます。正に“ディレクターズインテンション”です。どちらが正しいという話ではなく、アートやメディアに対する視点の違いが鮮明に表れているのが、比較としてとても面白いですね

麻倉氏:君の議論は書生ぽくて面白いね。今回のことも「そうだったのか!」という感じで、この視点の違いは驚かされました。そういう意味で言うと、BPOは発信者でありながらも考え方は受け手の側に近いものを感じますね。例えばBPO全集コレクションで最初に出たシューマンのものはアートワークが凝っていて、表紙には花瓶が描かれています。シューマン自身が分裂症気味で躁鬱があったのですが、そういったものを表現するために表は端正できれいな「躁」の花瓶を、しかし裏はいびつに歪んだ「鬱」の姿を配しているのです。このようにBPOのコレクションは、作る側が受け手の視点に立ってこだわっているとても良い例だと思いました。

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