背に腹は代えられない。淳也さんはとうとう、受託開発を決断する。2001年1月、「はてな開発部門」を新設。受託の仕事は次々に入り、はてなの窮状を救った。同5月、新サービス「はてなアンテナ」をリリース。経営は安定し、ユーザーは徐々に増えてきた。
受託に新サービスにと多忙を極める淳也さんと対照的に、令子さんは手持ち無沙汰だった。ユーザーサポートと広報、経理、を担当していたが、サポートメールはほとんど来ないし、事務作業もたかが知れている。昼ごろに出社して、夕方に帰る毎日。プログラミングもできず、手伝えることがない。「自分は、本当にここにいていいんだろうか。ただ偶然、近藤淳也の奥さんになったからここにいるだけだ」――不安で、申し訳なかった。
転機は「はてなダイアリー」だった。
「小学生の頃から、ホームページを作っていたんです」。その名も「令子新聞」。A4レポート用紙の上半分にニュースや標語を書き、下半分に「みんなの掲示板」という余白を作り、鉛筆をぶら下げて洗面所に張った。「おうちで読ませるから、“ホーム”ページ」
淳也さんに個人サイトを作ってもらい、日記を更新したこともある。「まるで水を得た魚のように、ネットの海を泳ぎまくりました」。何かを表現し、人と共有するのが好きだった。
はてなでも同じような場を作りたくて、「スタッフ日記を書かせてほしい」と淳也さんに申し出た。返答は「『いわし』に書きなさい」。人力検索の補足用ツリー掲示板「いわし」に、1年半、日記を綴った。肩身が狭かった。
2003年1月。はてなダイアリーのサービスインと同時に、スタッフ日記も「はてなダイアリー」に昇格。令子さんは再び、ネットの海を泳ぎ始めた。
ハンドルネームは本名をもじった「れいこん」。名前や顔写真、悩みから飼い犬の体重まで日記で公開する。「ネット上のコミュニケーションは顔が見えない」――そんなイメージを払拭したいという。淳也さんとメールで知り合えたのも、ネットの向こうにいるリアルへの信頼感があったからと思うから。
コンプレックスだったPCへの苦手意識は武器に変わった。人力検索やアンテナのユーザーはネットに慣れた人ばかりだったが、ダイアリーユーザーの多くが初心者。PCが苦手な令子さんにしか答えられない問い合わせメールが、続々と届くようになった。
ダイアリーは大ヒットし、瞬く間に万単位のユーザーを獲得。折から始まったブログブームの先駆けと目され、はるばる東京から取材に来るメディアも現れた。はてなの名は業界にとどろき、受託開発に頼らなくてもやっていける状態に。2004年4月、はてなは東京に移転。スタッフは10人に増えた。
「自分でWebサイトも作れないし、プリンタもつなげない。スキルがない分、他のことで補いたい」と令子さんは言う。飲み物の出し方を工夫したり、得意の料理でお客さんやスタッフをもてなしたり――唯一の女性として、ITが苦手な人間として、自分じゃないとできないことを探す。「来た人が『悪い会社じゃないな』と思ってくれるようにしたい」
時には嫌われ役も引き受ける。「社長が叱ったら、場が凍ってしまうから」、社長の代わりにスタッフを叱ることもある。不採用の入社希望者に、通知を送るのも令子さんの役割。相手の気持ちを思うとつらいけれど、社長夫人だからこそ角を立てずに済むと、懸命に割り切る。
「吉祥寺で見つけたんです」――そう言って見せてくれた胸元のペンダント。はてなマークのシルバーに、愛情と覚悟と女性らしさが輝いていた。
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