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「ゾーニングの顔をした表現規制」「社会の自立の、行政による他殺」──宮台教授「どうする!?どうなる?都条例」(2/2 ページ)

» 2010年05月20日 19時25分 公開
[小林伸也,ITmedia]
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文脈に依存する「わいせつ」

 つまり代替的手段があるにもかかわらず、7条の2(非実在青少年の規定)を加えることの社会的副作用とはなんだろうか。なんといっても運用の恣意性なんですよね。

 さっきの公序良俗問題と区別するために言っておくと、ぼくは国会や裁判所に呼ばれて、刑法175条は廃止しろという議論をずっとしてきています。それは表現規制をやめてゾーニング規制にしろということなんですね。ゾーニングならすべていいわけではなくて、ゾーニングも限定されていないと意味がなくなってしまうんですけれども。

 学問的には「わいせつ物」という実体はなく、社会的文脈がわいせつ感情をもたらすだけなんですね。具体的に言えば、非性的空間に性的なものが持ち込まれた時にわいせつ感情がもたらされる。だから、わいせつに関わる規制は、社会的文脈の制御だけが社会学的には合理性があります。夫婦の営みがわいせつですか? 学会における映写がわいせつですか? 違うんですね。文脈次第で変わるわけです。恋人に対してして良いことをそうじゃない人にすれば当然わいせつになるわけです。

 ただし、複雑な社会ではわいせつ感情を含めて感情の働きが人それぞれ、つまり多様化する。であるがゆえに、幸福追求権に「不意打ちを食らわない権利」を書き込むのが合理的だということになって、先進各国は表現規制からゾーニング規制にだんだんシフトしてきた。日本もシフトするべきだという立論をしてきたわけです。

 構成要件が非常に不明確であるがゆえに、表現規制として機能する7条の2を含む今回の改正案は、市民による検証を阻害する。表現規制による最大の問題は、何が表現規制されたのかが、表現規制によって分からなくなってしまうところにあるんですね。ですから、厳格なゾーニングが一番良いわけです。

「社会の自立が本義。社会を行政に依存させてはダメ」

 次に「ジャパニーズポップカルチャー固有の危険」。漫画やアニメの表現は年齢判断の恣意性が大きい。設定は成人だが子どもにしか見えないということは普通にあり……ところが成人なのに子どもに見えるキャラクターが日本のアニメの売りです(会場笑い)。設定に関係なく子どもに見えることを取り締まれば、日本的表現への死の宣告です。「東京国際アニメフェア」を共催する東京都にとっても恥ずべき無理解の露呈になります(会場笑い)。既になっています(会場拍手)。

 そして、もし設定だけが問題なら「これは成人がコスプレしてるだけです」と断れば何でもありですが、これはナンセンスでしょ。結局キャラに注目するにしても、設定に注目するにしても、今回の非実在青少年の規定は完全にナンセンスです。

 おそらく自民党や公明党の議員さんは「あんた、子どもを守りたくないのか」とかって言うでしょう。子どもを守りたいのはみんな同じだよ、当たり前だよ。ここで事業仕分けと同じ論理が必要なんです。目的は良いとして、手段はそれでいいのか。官僚の利権は、良さげな目的に隠れた不合理な手段にこそ宿るんですよ。高齢者保護の目的は良いとして、さてその手段で良いのか。同じように青少年保護の目的は良いとして、さて、その手段で良いのか。これが問題なんですね。

 「子どもを守る」という目的はいいに決まってる。しかしメディア規制は疑問ですね。なぜかというと悪影響論はNGだったでしょ。社会的意思表示論もNGですよね。そうすると、メディア規制によって何をしようとしているのかよく分からない。さらに、行政がこういう問題に関与することがいいのか。後で言いますが、社会的な関わりを前提とした行政の関わりでない点、行政の勝手な暴走である点でNGです。関与の仕方の是非と言うことについては既にお話をしました。全体および社会をスルーして、いきなり行政が出てくるところがおかしい。

 最後に「市民社会の本義」。これを確認したい。いわゆる「雨漏りバケツ」問題、つまり「雨漏りがまん延すればバケツへの需要が生じるのは当たり前だから、市場や行政がバケツを用意すればOK」になります。しかし、本当は屋根を葺(ふ)き直すことが本義ではないでしょうか。バケツの提供はあくまで緊急避難的な処置、弥縫策ではないでしょうか。

 これは比喩です。社会の自立こそが本義です。つまり屋根を葺き直すということですよ。社会が変なら社会をちゃんとする、それを補完するのが行政の役割で、社会を行政に依存させてはダメ。ということはメディアの善し悪しについて、行政が呼び出されるわけはない。親がなんとか言えよって話ですよね。

社会の自立の自殺、あるいは他殺

 抽象的な話ですが「現実の枠」より「表現の枠」のほうが大きいのは当たり前ですよね。だからぼくたちは、表現を通じて現実を選べるわけです。従って、現実よりも表現のほうに逸脱が目立つのは当たり前です。それは社会の常態=コモン・ステイトですよね。そして、この「現実の枠」を超えた表現に対して議論するのが社会成員の責務であるわけです。

 ところが「現実の枠」を超えた表現を、行政が封殺しようとしている。これは社会の自立の自殺に当たるわけですね。まあ、他殺ですね、行政による。

 従って、ぶっちゃけて言うとですよ。一般に、いろんな表現が転がっているということは、コミュニケーションを通じて「これどうなんだろうね」って議論をするチャンスであって、そういう議論を通じて自分たちがどういう社会で生き延びて行きたいのか決まっていくわけですよ。そういうチャンスを放っておいて、全部封殺して、社会について何をしようとしているんですか。あるいは何かというと社会を乱すヘタレというのは、子育ての資格があるんですか。全く普通の話をしてるだけなんですけど、日本では何かというとですね、「行政は何やってるんだ」「警察はなにやってるんだ」とか、騒音を隣の家に文句言わないで警察を呼ぶ。こういうありえないことに警察が呼ばれるわけですよ。自分で行って話してこいよ、っていう話はどうなってるんだよと。本屋に売ってたら本屋に文句言いに行けよ。なんで行政が出てくるんだよ。行政呼んでるやつは誰だよ。誰も呼んでないんだよ本当は(会場笑い)。行政官僚が「わたし呼ばれてます」って出てきてですね、キーキー言ってるだけなんですよ。お笑いですよね。以上がわたしの話です。

(つづく)

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