当然沸き起こってくる疑問の1つは、脳はどのようにして歪同心円錯視を起こすのかということです。筆者らはこの問題に、第8回でも登場した幾何(きか)的フィルタバンク(新井仁之・新井しのぶ、2010)を使う数学的方法でアプローチしてみることにしました。幾何的フィルタバンクは、幾何的フィルターというさまざまなタイプの同心円、螺旋、放射状の線など特定のパターンに強く反応するように作ったデジタルフィルターのようなものの集合体で、ある種のウェーブレット・フレームのような数学的構造を持っています。
94年と96年にギャラントらは、マカクザルを使った実験で、脳の視覚野にある「V4野」に同心円、螺旋、放射状の線などに強く反応する神経細胞があることを報告しています([G])。幾何的フィルターは、それらの神経細胞による情報処理の特性を数式で表しているのではないかと考えています。
まず幾何的フィルタバンクに「歪同心円錯視(灰色版)」を入力してみました。すると、幾何的フィルターはさまざまな反応を起こしました。次にこれら反応した幾何的フィルターの1つ1つに抑制などの操作を加えて、その出力画像を観察しました。その結果、歪同心円錯視発生に関与する複数の幾何的フィルターが存在することが分かりました。
実際、歪同心円錯視に関与すると考えられる幾何的フィルターの反応を除去すると、次の図が出力されました。この出力画像では、歪同心円錯視(灰色版)に比べて錯視はほとんど認められません。
さて、このコンピュータによる数学的実験をしていて、ある興味深いことが判明しました。幾何的フィルターの中には、同心円が「交差して見えることに寄与するもの」「いびつに見えることに寄与するもの」という2つがあったのです。
あらためて歪同心円錯視をご覧ください。円の形がいびつに見えるだけでなく、それと同時に円同士が交差しているようにも見えると思います。交差して見えることに寄与する幾何的フィルターがあることは、その反応を止めた幾何的フィルタバンクが出力してくる画像を見れば分かります。出力画像は次のものです。
これを見ると、円がいびつに見えるものの、歪同心円錯視画像と違って円同士が交差しているようには見えません。次に、いびつに見えることに寄与する幾何的フィルターの反応のみを止めてみます。すると次のような画像が出力されます。こちらは円にはほとんどいびつさはないものの、円が交差しているように見えます。
以上のような歪同心円錯視の数学的な解析から次のようなことが推測されます。
「歪同心円錯視図形を見たとき、同心円、螺旋、放射状の線などに強く反応する脳内の神経細胞が錯視発生に関係し、そのうち特定のものが、同心円がいびつに見えること、あるいは同心円が交差しているように見えることに寄与しているのではないか」
今回は歪同心円錯視について紹介しましたが、フラクタル螺旋錯視やグラス・パターンもV4野に関係があると推測されます(本連載第2回、第8回参照)。あらためて別の機会に紹介したいと思いますが、この他にも脳のV4野に関係があると推測される錯視があります。脳のV4野が行う情報処理のより進んだ数理モデルの開発と、それによるさまざまな錯視の解析は、錯視の数学的な研究にとって興味の尽きないテーマといえるでしょう。
参考文献
[A1] H. Arai and S. Arai (2010): Framelet analysis of some geometrical illusions, Japan Journal of Industrial and Applied Mathematics, 27, pp.23-46.
https://link.springer.com/content/pdf/10.1007%2Fs13160-010-0009-6.pdf
[A2] 新井仁之,新井しのぶ (2012): 視覚の数理モデルと錯視図形の構造解析、心理学評論,55, pp.309-333.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/55/3/55_309/_pdf/-char/ja
[F] J. Fraser (1908): A new visual illusion of direction, British Journal of Psychology, 2, pp.307-320.
[G] J. L. Gallant, C. E. Conner, S. Rakshit, J. W. Lewis and D. C. Van Essen (1996): Neural responses to polar, hyperbolic, and Cartesian gratings in area V4 of the macaque, J. Neurophysiology, 78. pp.2718-2739.
著者:新井仁之(あらい ひとし)
早稲田大学 教育・総合科学学術院・教授、理学博士。
横浜市生まれ。早稲田大学、東北大学、東京大学を経て現職。
視覚と錯視の数学的新理論の研究により、平成20年度科学技術分野の文部科学大臣表彰科学技術賞(研究部門)を受賞、1997年には複素解析と調和解析の研究で日本数学会賞春季賞を受賞。
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