大きな正方形が二つ、その中に小さな正方形が描かれた画像があります。小さい方の正方形、よく見ると右と左で違った色に見えませんか? しばらく画像を見つめてください。
実は、大きな正方形の色は左右で確かに違っています。しかし、小さい方の正方形は右も左も同じ色をしています。違った色に見えるのは、「色の同時対比」という錯視が起こっているからです。今回はこの錯視のお話をしたいと思います。
あなたが今見ているものは、脳がだまされて見えているだけかも……。この連載では、数学やコンピュータの技術を使って目に錯覚を起こしたり、錯覚を取り除いたり──。テクノロジーでひもとく不思議な「錯視」の世界をご紹介します。
色の同時対比研究の歴史は、19世紀前半にまでさかのぼります。
当時、フランスの王立ゴブラン製作所で染色研究部門の監督をしていたミシェル=ウジェーヌ・シュヴルール(1786-1889)という人が、この錯視の本格的な研究を始めました。ゴブラン織は織物の一種で、古くからヨーロッパの宮殿や館の装飾品として使われていました。
「ゴブラン織が、錯視と何か関係があるの?」
そう疑問に思う方もいるかもしれません。しかし、大いに関係があったのです。
当時、王立ゴブラン製作所には織物の色について、いろいろな苦情が寄せられていました。その中に「染料を混ぜるとき、ブルーやバイオレットを陰らせるのに使う黒が、濃度不足だ」というクレームがありました(文献【1】より引用)。
シュヴルールはこの苦情について調べ、その原因が製作所で使っている黒色素の品質の問題ではなく、目の錯覚によるものと明らかにしました。それが“色の同時対比”だったのです。
ゴブラン織は17世紀から19世紀にはフランスの重要な産業の一つとなっていました。色の同時対比の本格的な研究は、学問的な興味から始められたというよりも産業上のニーズ(苦情を解決する)から生まれたものであったといえるでしょう。
シュヴルールは数多くの観察と研究を積み重ね、色の同時対比に“ある種の法則性”があることを発見します。どのような色の配置が、どのような色の同時対比を生み出すのかを明確にしたのです。
さて、色の同時対比錯視を数理的な視点から眺めてみると、次のような疑問が思い浮かびます。
網膜や脳の神経細胞から得た情報を人間の脳が処理する仕組みを数式で表した数理モデルを作ることができれば、それを実装したコンピュータを使って人が起こす色の同時対比を自動的に算出できるのではないか。比喩的に言えば、コンピュータに対しても人と同じように色が異なって見える錯視を引き起こせるのではないか。
筆者と共同研究者の新井しのぶは、この問題に取り組みました。脳内の視覚情報処理に関する一部の数理モデルを作り、それをコンピュータに実装したところ、色の同時対比とそれ以外の錯視をいくつかコンピュータに引き起こすことができました。
視知覚には個人差がありますが、この数理モデルはある程度個人に合わせてカスタマイズすることができます。例えば筆者らの視知覚に合わせた数理モデルでは、最初にご覧頂いた色の同時対比の画像について、下の図のような結果が得られます。
図の下方に並べた小さな三つの正方形のうち、中央が錯視図形の二つの小さい四角形と同じ色です。そして右端と左端の正方形が、コンピュータの起こした色の同時対比錯視による色です。
ただし、この図では算出された色を比較するために小さな正方形の部分を抜き出して並べたので、これらを比べて見るときには、背景に対して色または明るさの同時対比がさらに起こります。それを少しでも抑えるため、背景は灰色にしました。
今回は四角形からなる単純な図形に対する結果を載せました。しかし、私たちは特別な錯視図形だけではなく、風景や写真などを見たときにも錯視を起こしています。
筆者らの数理モデルを実装したコンピュータは、複雑な自然画像などでも、実は人がそれを見ているときの色の同時対比や、ある種の錯視を起こす箇所で錯視を自動的に引き起こします。この数理モデルは、これらの錯視発生の検出や新しい画像処理技術にも結びついています。
詳しくは別の回でいずれご紹介したいと思います。話を色の同時対比に戻しましょう。
色の同時対比について更に一歩進んで考えてみると、次のような問題が浮かんできます。与えられた色の背景のもとで、希望の色に見えるようにするためには、実際にどのような色にすればいいのか。これを脳内の神経細胞による視覚情報処理の数理モデルで算出できないだろうか。
つまり色の同時対比の逆を求める問題です。この問題にも筆者と新井しのぶによる視覚情報処理の数理モデルを応用することができました。その結果の一例が次のものです。
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