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「IBM PC」がやってきた エストリッジ、シュタゲ、そして互換機の台頭“PC”あるいは“Personal Computer”と呼ばれるもの、その変遷を辿る(2/2 ページ)

» 2020年12月16日 08時00分 公開
[大原雄介ITmedia]
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マイコンと呼ばれるための2つの条件

 この段階で、前回触れた2つの「マイコンと呼ばれるための条件」のうち、CP/Mがそのままでは動かないということになった。当初IBMはDigital Researchと交渉してCP/Mを移植してもらう予定だったが、この交渉に失敗。その代わりMicrosoftがMS-DOSを提供するという契約を結ぶことに成功した。実はIBMがMicrosoftと最初に契約したのは、MS-DOSではなくBASICの供給である。この辺りの話、ちょうどDiamond Onlineで西和彦氏が記事にされているのでこちらでは繰り返さない。

 まぁこんな経緯でIBM PCは生まれた訳だ。

 結果として、PCと言えばIBM PCを指すことになった。"Personal Computer"という言い方でIBM PC以外を指すことはあった(写真3)が、PCといえば事実上IBM PCを指すのが普通であった。

photo 写真3:BYTE Magazine 1982年1月号の広告。Atari 800と「Commodore PET」は“Personal Computer”だそうだ。ところで左上はNECの「PC-8001A」(アメリカ向け仕様のPC-8001)であるが、こちらが“Microcomputer”になってる辺りが面白い。出典はInternet Archives収録のBYTE Magazine Volume 07 Number 01

 さて、IBM PCの立ち上がりによって、その他のメーカーはどうしたか? というのが問題である。写真2にもあるように、1982年頃はまだ8bit機の方が市場を席巻していた感がある。

 実際、台数ベースのマーケットシェアで言えば、1984〜85年辺りまでは「Commodore 64」とIBM PCが互角という状況が続いており、この2つから大きく離されて「Apple ][」「Macintosh」「Amiga」「Atari ST」などが並んでいる状況。

 Z80ベースのCP/Mマシンなどは、この辺りから急速にシェアを落としていく(台数ベースでは多少増えてはいたものの、Commodore 64とIBM PCの出荷台数の伸びが急激すぎて、これに追い着いていけなかった)。ではそうしたメーカーはどうしたかというと、16bit CPUに移行した。最初に出てきたのがIntelの8088や8086を利用したマシンである。次いでMotorolaのMC68000を搭載したマシンも出てきたが、これは価格が高めということもあって、コンシューマー向けにはいまひとつという感じではあった(AppleのMacintoshがその代表例だろう)。

 問題は8086を利用したマシンである。構造的には8086なり8088を使う限り、基本IntelのReferenceに沿った形での構成になるのが普通であり、結果としてIBM PCとハードウェア的には大して変わらない(というか、基本同じ)ものになる。差別化を図るとすれば、メモリ容量とか周辺機器、グラフィックスなどになる。グラフィックスは後で話をするとして、問題はソフトウェアである。

 IBM PCも当初はBASICをMicrosoftに提供してもらった(これは先の西和彦氏の記事にも出てくる)訳で、当然他のメーカーもやはりMicrosoft詣でをして、自社のマシン向けにBASICの移植を頼むことになる訳だが、その次にMS-DOSの移植をお願いすることになった

 これは、IBM PCの登場に合わせてさまざまなアプリケーションがMS-DOSに移植されたため、MS-DOSを利用できるようにしないと当然ながら競争力を欠いてしまうからだ。

 さて問題はここからである。CP/Mの時代、BIOSはCP/M側で提供していた。中には(Digital Researchから権利を買って)ROMで提供している機種もあったが、ほとんどの場合、BIOSはブート時にフロッピーディスクから読み込まれ、そのままメモリに常駐することになった。ところがMS-DOSでは、このBIOSがROMの形で実装され、ハードウェアベンダーが提供する形になった。

 IBM PCでは当然、このBIOSをIBM自身が提供する訳だが、IBMは自社のBIOSを著作権で保護しており、その他のメーカーはこれをコピーして使う訳にはいかなかった。

 結果、各マシンのメーカーは自分でBIOSを作り、それに合わせる形で自社用のMS-DOSをMicrosoftから提供してもらう形になった。MS-DOSが提供するFunction Callだけを利用するアプリケーションは、どこのメーカーのMS-DOSマシンであっても問題なく動作した。

 問題はこれで動作しないアプリケーションが山ほどあったことだ。理由の一つは先に触れたグラフィックス。MS-DOSはテキスト画面の入力とか出力のFunction Callはあったが、グラフィックスに関しては何も提供されなかった。

 そのため、グラフィックスを使うアプリケーションは必然的にビデオ周りのBIOS(もしくは下手をするとビデオのハードウェアそのもの)をたたく必要があった。

 ここは各社が差別化のために拡張しまくっている部分でもあり、それもあってMS-DOSで動きつつも実際には「IBM PC用」「〇〇〇用」「△△△用」という具合に細かくバージョンが分かれることになった。ただ、大きなメーカーだと、主要なアプリケーションベンダーに自社用製品を開発してもらう(この際に当然移植費用をアプリケーションベンダーに支払う必要がある)ことが可能だが、そこまでのコストを負担できないメーカーにとって、この状況はなかなか厳しい。

 そうこうしているうちに、新しい状況が生まれてきた。IBM互換BIOSの誕生である。

 最初にこれを手掛けたのがCompaqで、1983年1月に「Compaq Portable」を出荷開始する。CompaqはクリーンルームスタイルでIBM PCのBIOSと互換性のある独自BIOSを開発。これを実装したことで、IBM PC向けのMS-DOSアプリケーションが一切変更なしで動作するようになった。

 次いで1984年5月にPhoenix Technologiesが、同じようにクリーンルームスタイルでIBM PCと互換ながら独自のPhoenix BIOSを出荷開始する。このPhoenix BIOS(完全にIBM PCと互換のCBIOS、そして拡張したABIOSの2種類が存在する)と、この頃から登場したChips & TechnologiesやOPTIといったベンダーの互換チップセットを組み合わせることで、IBM PCとハードウェア・ソフトウェアの両面で互換性を持つ製品が、はるかに安価で製造できるようになった。

 IBM自身も1983年にIBM PCを改良したIBM PC/XTを、1984年には8088に替えて80286を搭載したIBM PC/ATをそれぞれ投入するが、互換BIOSベンダー(この頃には後追いでAMIやAward Software Internationalなども互換BIOSの提供を手掛けるようになった)や互換チップセットベンダーはIBMの動きに追従し、それほど遅れることなくIBM PC/XTやIBM PC/AT互換のものを提供するようになった。

 結果として、1985年辺りからIBM PC/ATとその互換機、という新しいマーケットが出現。1980年代前半に独自MS-DOSを搭載したマシンは急速に駆逐されることになってしまった。例外は日本に代表される、ヨーロッパ以外の非英語圏向けである。

 日本の場合は日本語の対応が必須とされるが、IBM PCでは日本語の対応ができない(主に漢字ROMを搭載しないのが最大の理由であった)ために、さっぱり導入が進まなかった。この状況はその後DOS/Vが登場するまで続くことになる。

 この話は置いておき、米国に話を戻すと、1985年のパーソナルコンピュータの出荷台数はおよそ750万台。うちIBM PCと互換機が400万台ほど。これが1986年になると総台数はおよそ900万台、うちIBM PCと互換機が500万台ほどになる。この辺りから、PCといわれると「IBM PCとその互換機」を指すようになってきた。1987年には台湾でVIA、SiS、ALi(Acer Laboratories Inc.)の互換チップセットベンダー御三家も創業、IBM PC互換機のマーケットはさらに急速に伸びていくことになる。

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