第8回 ようやくスタートライン奇跡の無名人たち(1/2 ページ)

みんなの頑張りで救われた――和人は営業所員たちにそう伝えた。そんな和人にアネゴは言う。「営業所がようやく1つになれたんだよ。これがスタートライン。ここから日本一を目指そうよ」

» 2008年10月08日 10時30分 公開
[森川滋之,ITmedia]

前回までのあらすじ

 ある通信事業者から営業所長を頼まれた吉田和人だったが、最初の1週間の営業成績は0回線。巻き返しを図る和人は、本部に内緒でチーム編成を刷新する。それが功を奏して、徐々に結果も出てきたが、目標には遠く及ばない。営業本部からは営業所の統廃合を脅される始末。

 そんな折、椿森電器から「おたくの社員がうちに来ている」と連絡を受ける。これまで個人向けの営業担当だったクオーターが、なぜか法人営業をしているというのだ。結果としては、一挙に100回線を売り上げ、目標を達成した。

 しかし、なぜクオーターが法人営業していたのか。その裏には、営業所員に奮起を促す事務員のアネゴや、それに応えようとするクオーターとマザーの働きがあった。

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 翌朝は、最高の五月晴れ。空は青く澄み渡り、木々の緑は寝不足の目にまぶしかった。ここ数日、和人は悩んでいたので、通勤途中の景色も目に入らなかった。いつの間にこんなに美しい季節になっていたのだろう。営業所に着くとすぐ和人は営業本部長の田島電話を入れて、C市営業所の存続を本部長本人から確認した。

 「いやあ、吉田さんのことだから必ずやって下さると思っていましたよ」。田島の甲高い声も今朝は耳障りに感じない。「何が“必ず”だ」と少し引っかかったが、営業とは結局結果がすべてなのだ。和人は素直に礼を言い、電話を切った。

 営業所会議の日だった。和人は、営業所がなくなるところだったという経緯を改めて全員に語り、みんなの頑張りで救われたとねぎらった。

 タカシが叫んだ。「みんなじゃないっしょ。クオーターのおかげだ」。そうだ、そうだとショージも囃し立てた。

 「クオーター! クオーター! クオーター! ……」。誰からともなくクオーターコールと手拍子が始まった。クオーターはどうしていいか分からず、目に涙を浮かべながら、自分の席でうつむいている。隣の席のマザーも目に涙をためながら、クオーターの背中をさすった。

 和人は、手で制すると言った。「確かに最後にクオーターが100回線の契約を取ってくれたおかげだ。でも、それまでみんなが頑張ったから、それで足りたんだよ。だから、この成果はみんなで達成したんだ。みんなで胸を張ろう」

 「でもさあ、やっぱりヒーローインタビューが聞きてえよ」。ショージが口をとがらせて言う。「バカ。ヒーローじゃなくて、ヒロインでしょ」。アネゴが突っ込んだ。

 「分かった、分かった。じゃあ、クオーター、一言みんなに」。和人が、クオーターに手招きした。前に立って話せというのだ。「日本語でお願いするよ」

 クオーターは帰国子女だから、英語のスピーチならお手のものであろう。でも、日本語はたどたどしい。真っ赤になってしまった。

 再び盛大な拍手。クオーターは少しよろよろしながら、所長の横に立った。「ええ、うーん。本日はお日柄もよく……」。声がかすれて震えている。

 「披露宴のスピーチじゃないんだから、そんなのいらないよ」。イケメンの突っ込みに、みんなどっと笑った。その笑いでクオーターも緊張から少し解放されたようだ。

 「あの、私は、わがままだったと思います。日本語がダメで、日本語勉強したくて、営業の申し込みしたのに、日本語がダメだから、会社へ売りに行くのイヤって言った。でも所長さんは、わがまま聞いてくれました。マザーさんと2人で個人向けだけでいいよって言ってくれました」。和人は、クオーターとマザーと3人でカバンを買いに行った日のことを思い出していた。

 「全体で350回線を毎月売らないといけないのは、知ってました。でも、マザーさんと私は2人でのんびり個人のお客さんを回ってた。1日5回線も取れたら、立派だって所長さんほめてくれました。だんだん楽しくなった。でも、それだけではみんなに貢献してないのも知ってました」

 みんな、静かに聴いている。外の車の騒音がやけにうるさい。

 「だから、その、ずっと迷惑かけてる気持ちがありました。でも、怖かった。会社に営業に行って、こんな日本語じゃ、何言われるか分からない。そう思うと絶対ムリって……」。クオーターの目が、また潤みだした。

 「でも、みんなに貢献したい気持ちはありました。だから、私ずっと悩んでました。自分からはやれない。だから、誰かに会社にも行けって言ってほしかった。でも、たぶん言われても怖くて行けなかった」。再び、声が震えだした。

 「もう、今月一杯で辞めさせてもらおうと思ってました。でも、それもなかなか言い出せなくて……。そしたら、アネゴさんがランチに誘ってくれて

 辞めたくなるぐらい追い詰められていたのか。まったく気が付かなかった自分を和人は責めた。

 「辞めようなんて気は、どこかに行っちゃいました。急に、こんないい営業所どこにもないと思いました。で、どうしたら貢献できるだろう、それだけ考えました。そしたら、マザーさんが会社を回ろうって言いました。私も同じ気持ちでした。別々はいやだったけど、そのほうが確率が高いっていうから、私も必死でやるって考えました」

 言葉がたどたどしい分、じかに誠意が伝わってくる。すでにマザーは号泣していた。感情があるのかないのか分からないと言われている事務員のチェッカーでさえ、目に涙を浮かべていた。

 「ほんとに怖かった。私の日本語じゃ失礼って思った。受付で追い返されるのはとてもミジメ。でも、頑張った。頑張ったら20軒目で話を聞いてくれました。頑張って良かったと思いました。もうそれだけ。頑張ってたら、神様が見ててくれるんだなって、本当に、本当に、そう思う」

 ここまでが精一杯だった。クオーターは泣き崩れてしまった。みんないっせいに拍手をした。目が赤くない者は誰もいなかった。大口兄弟は握りこぶしを作っている。闘志が湧いてきたのだろう。誰もよりもうれしかったのは、アネゴかもしれない。クオーターはみんなに貢献しようと勇気を振り絞った。みんなのために頑張ったんだ。そして、みんなもそれを誉め称えている。これは、所長がさっき言ったとおり、みんなで成し遂げたことなんだ。いつも一匹狼でみんなで何かを成し遂げることに憧れていたアネゴは、感動と幸せをかみ締めていた。

 アネゴに負けず劣らずうれしかったのは、和人だった。しかし、彼は反省もしていた。

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