先述したような出張者の客のほとんどは、ふくやの店の場所を示した地図を手にやって来ていた。そこには中州市場の入口を入り、左から4軒目の店と書かれていた。ところが、中州市場には東西2つの入口があったため、他方の入口から入ると当然別の店に行ってしまうわけである。それがふくやの斜め前にあった漬物屋だったという。
客が間違えるたびに、漬物屋の主人がわざわざ一緒にふくやへ客を連れてきてくれた。しかし、あまりにも度重なり、手間がかかるので、あるとき俊夫氏に「ふくやの商品をうちの店に置かせてくれ」と親切心で提案した。すると俊夫氏は「卸はやらない」と即座に断り、代わりに「おたくも明太子を作ったらどうか」と勧めたのである。
さらには自らが10年もかけて培った製法をあっさりと教え、原料メーカーを紹介し、品質を保つために冷蔵庫による保存も必要だとアドバイスした。そうして1962年ごろにはふくやの斜め前と隣の2軒の店も、自分たちで作った明太子を販売するようになったのである。
1967〜68年ごろには現在大手の明太子メーカーが次々と開業したが、そこでも俊夫氏は惜しみなく製法を伝えていった。そのころには明太子がよく売れるようになり始めたので、ふくやの社員たちは俊夫氏に「商標登録や製法特許を取るべきだ」と訴えた。それに対して俊夫氏は「そんな必要はない」と即答。漬物を引き合いに、次のように説いたという。
「漬物にはさまざまな味がある。同じ大根でも白菜でも、漬け方ひとつで味は変わる。家庭ごとでも味が違う。そんな漬物に商標はあるか? 製法特許はあるか? 明太子だって誰が作ってもいいではないか」
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