一方で、俊夫氏が言い続けていたのは、味はふくやの真似をせず、各社それぞれが味を変えるようにすべきだということ。なぜかというと、世の中にはふくやの明太子の味がおいしいと言わない人もいる。人間には好みがあるため、いろいろな味があった方が結果的にそれぞれの店の明太子が売れるようになると考えたのである。
昔から一人占めが嫌いだった俊夫氏にとって、ふくや1社だけ成功し、残りはすべてつぶれるというのは許せなかった。そのような考え方があったからこそ、明太子は福岡の文化として根付き、全国に浸透していったのだろう。
正孝氏はこう話す。「新幹線が開通して明太子は全国区となりましたが、もしふくやだけが明太子を独占、販売していれば、恐らく広がらなかったと思います。例えば、かねふくは量販店や市場にどんどん出荷していたし、やまやは東京のデパートを中心に販売していました。鳴海屋やいとやは福岡の駅や空港に置いていました。各社それぞれの取り組みがあったからこそ県外に明太子の名が広まり、新幹線開通後、博多の街が明太子の発祥だということで一気に福岡の名物になったのです」。
福岡の明太子が全国に知れ渡ったのは、どこか1社だけの頑張りではなく、明太子にかかわる人々すべての力だったのだ。
今でも福岡の明太子メーカー同士の横のつながりは強く、情報交換などを頻繁に行っているそうだ。そしてまた、今も昔も変わらず、各社がしのぎを削って競い合うのはあくまで「味」なのだという。「ふくやも味では絶対に負けるなと言っている」と正孝氏は力を込める。
次回は味に対するふくやの取り組みと、その中で生まれたヒット商品についてお伝えしたい。
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