実はこの傾向は、戦前から脈々と受け継がれてきた「伝統」でもある。
日露戦争開戦に迷う元老の山縣有朋を、外務省の依頼で口説き落としたのは朝日新聞の「近代的エディターとしての主筆」の先駆けといわれる池辺三山。日本ではジャーナリズム黎明期から、記者は「観察者の枠を超え、政治家に働きかけて政治的課題を決定する人種」だと決められていた。
もちろん、それに満足できず記者から政治家になる人間が山ほどいた。犬養毅や原敬ももともと新聞記者だった。ただ、彼らがいた新聞は、大隈重信が買収した『郵便報知新聞』だったりという政府の機関紙だった。現代の我々の感覚でいえば、「ジャーナリスト」というよりも、『聖教新聞』や『赤旗』という「機関紙の記者」だったという考えた方がいい。
つまり、日本のジャーナリストというのは、近代に産声をあげたときから「政治プレイヤー」の一員だったのである。政治課題の設定が主な役割なので当然、主張は大衆ではなく政党に偏る。よく「偏向報道」という話になると、GHQが洗脳してうんたらかんたらというところにいきがちだが、実はマッカーサー様が乗り込んでくる前からとっくのとうに「偏向」をしていたわけだ。
そういう戦前のジャーナリストたちから薫陶(くんとう)を受け、「いいか、お前ら、観察者じゃなくてプレイヤーになれよ」と叩き込まれたのが戦後、新聞記者になられた鳥越さんたちの世代である。
鳥越さんは2006年、市民記者というシステムを導入したネット新聞『オーマイニュース』の編集長に就任されているが、その直前のインタビューでこのように述べられている。
『昔、先輩記者に「新聞記者とはなにか。最終的には、社会正義の実現にかかわることだ」と言われた。この言葉は印象的に今も残っている』(2006年5月27日 朝日新聞)
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