4度も姿を変えた伏見城、最後はバラバラに……「真田丸」を100倍楽しむ小話(2/2 ページ)

» 2016年08月06日 08時35分 公開
[ITmedia]
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編集部F: こういうところに歴史のロマンを感じます。ところで、江戸時代になって徳川家はなぜ伏見城を廃城にしてしまったのでしょうか。

小日向: 詳しい理由は分かっていませんが、大坂の陣で豊臣家が滅亡した後だったこともあって、伏見城は茶々の怨念がこもっていそうで不吉だと思ったのかもしれませんね。伏見城は解体され、柱や床などは各地の城や寺などで利用されました。

伏見城の模擬天守 伏見城の模擬天守

編集部F: 確かに伏見城の遺構は多いですね。現存しませんが、二条城にも天守が移築されたそうですし。けれども、仮に茶々の怨念があるのであれば、各地に散らばるほうがより脅威な気はしますが(笑)。

小日向: そうですね(笑)。ただ、良い資材などを再利用しようというエコの精神のほうが勝っていたのかもしれませんね。伏見城の再利用という点では「血天井」も有名です。

編集部F: 血天井?

小日向: 先ほど話した関ヶ原の戦いのときに伏見城を守っていたのが、徳川家康の腹心、鳥居元忠でした。約10日間、西軍の攻撃を必死で防いでいたのですが、ついに力尽きて、家来など380人とともに伏見城で切腹しました。けれども、元忠などの遺体は関ヶ原の戦いが終わるまで2カ月ほど放置されていたため、床板に血痕が染み付いて取れなくなってしまったのです。

 死んだ者たちを供養するために、その床板を外してお寺の天井にしたのが血天井です。京都の養源院や源光庵などで見ることができますよ。

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