郷愁だけで鉄道を残せない しかし、鉄道がなくても郷愁は残せる杉山淳一の「週刊鉄道経済」(2/4 ページ)

» 2017年10月06日 07時00分 公開
[杉山淳一ITmedia]

郷愁だけでは鉄道を維持できない

 久大本線は流された鉄橋の架け替えを含めて、2018年夏までに復旧させる予定という。しかし、日田彦山線は被害が多く、復旧のめどは立たない。西日本新聞は10月3日、JR九州社長の青柳俊彦氏にインタビューし、「日田彦山線については鉄道以外の輸送も視野に検討する考え」と報じた。「大災害で鉄道が破壊された場合、ゼロから交通手段を整備するようなもの」。現在の利用客数で考えれば、バス、タクシーなども検討に値するという。

 日田彦山線がまさにその状態だ。さかのぼって7月末日、JR九州は16年度の路線別利用状況を発表している(関連記事:JR九州が発表した「全路線の通信簿」から見えること)。日田彦山線は路線別の平均通過人員で下から4番目。不通区間を含む田川後藤寺〜夜明だけをみると1日299人だ。これはJR九州が算定した区間の中では下から5番目である。

 この数値を公表した直後の8月8日、青柳社長は都内で記者会見を開いた。読売新聞によると、「JRが全て面倒をみるということでは済まない。住民とよく議論したい」「郷愁ばかりで鉄道を残すのは、社会にとって本当にプラスか」という趣旨の発言をしている。

 「郷愁ばかりで……」という言葉が重い。鉄道路線の存廃問題で、話をややこしくする最大の理由は、「利用しないけれど鉄道は残したい」という人々の存在だ。鉄道ファンもそうだけど、地域外からの趣味的な声は無視していい。しかし「鉄道が無ければ地域が廃れる」と、妄信的に主張する人たちがいる。それが地方議会の議員だったり、商工会の幹部だったり、要するに、地域の実力者だったりする。こちらは無視できない。

 彼らは自分自身で鉄道を利用しない。鉄道の存廃を話し合う場所にもクルマでやってくる。私の観察の範囲内だけど、鉄道が廃れる地域では、駅のそばに大勢の人々が集まる場所はない。公民館、役所などは駅から離れた幹線道路沿いで、クルマで行くしかない。そんなことだから鉄道の利用者が減るわけだ。

 しかし重鎮の人々は、かつて鉄道で栄えた時代を知っている。ふだんは井戸水で暮らしていても、「水道を廃止するから井戸水だけにしなさい」と言われると不安になる。同じように、普段クルマを使っていても、「鉄道をやめてクルマだけにしなさい」となると不安になる。鉄道があって栄えた時代への郷愁があるからだ。

 国鉄からJRになり、上場して民間会社となったとはいえ、公共性の高い鉄道事業には社会的責任がある。しかし、利用者が極端に少なければ、それは公共性のある交通手段といえるだろうか。採算を超えた公共サービスは自治体の役割であり、企業の許容限度を超えるならば、自治体の負担で運行すべきだ。

 これはいままで全国の赤字ローカル線で繰り返された議論だ。それは鉄道だけに限らない。バス路線、航空路線でも議論されてきた。自治体が市民のために適切な交通システムを検討する。その段階で鉄道の維持が利用者数に比べて高コストだと気付く。

 真剣に鉄道を維持するなら、鉄道というシステムにふさわしいまちづくりが必要だ。鉄道があればなんとかなる、という考えは、市民ホールを作れば人が集まるというハコモノ行政と同じだ。あの頃は良かった。夢よもう一度、という過去の思いだけでは鉄道を維持できない。

photo 九州の鉄道不通区間(国土地理院地図を加工)

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