日本酒「獺祭(だっさい)」を製造する旭酒造(山口県岩国市)の桜井博志会長は9月11日、東京工科大学(東京都八王子市)で行われた特別講義「ピンチはチャンス! 山口の山奥の小さな酒蔵だからこそできたもの」に登壇した。教室に詰めかけた学生や近隣住民に向けて、「獺祭」を世界的なブランドに育てる上で味わった苦労や、酒づくりに対するこだわりなどを語った。
桜井氏が社長に就任した1984年当時、旭酒造の売上高は、現在の150分の1程度の9700万円にすぎなかった。また、消費者の趣味嗜好の変化などにより、日本酒マーケット自体も縮小傾向にあった。
こうした状況にあって桜井氏が業績をV字回復させ、「獺祭」を全国的に有名な商品に育てることができた理由は、「業界が廃れたおかげ」だという。
当時の旭酒造は、山口県内の同業他社と同じく「自社でつくった酒類を県内の酒屋に納入して売ってもらう」というビジネスを展開。「県内の狭い市場で競合に打ち勝ち、40〜50%のシェアを狙う戦い方をしていたが、あまり売れていなかった」そうだ。
そこで桜井氏は、「廃れつつある業界で、他社と同じことをしていては業績が落ち込む一方だ」「狭い市場で競争していると、資金の差が勝敗に直結するため、資金力に欠けている旭酒造には不利だ」と判断。他社とは違った施策を打つことで逆転を試みた。
桜井氏が選んだのは、より大きな東京の市場で、1%前後のわずかなシェアを獲りにいくという、お金がなくてもできる“弱者の戦略”。それが奏功し、90年ごろから東京で「獺祭」の人気に火が付き、一躍ヒット商品となったのは周知の通りだ。
桜井氏は「健全に成長している業界では、手を打たなくても『昨日と同じ今日』が訪れる。だが、縮小している業界ではそうではない。それに気付き、変わろうとしたことで成長できた」と振り返る。
ただ東京で成功した旭酒造に対し、山口県内の酒屋などからは、「地元を無視するな」「地元を大事にしない商売人に、成功した人はいない」などと批判の声も出たという。
だが桜井氏は、「地元で売れなかった“負け組”だから、他の市場を探すしか道がなかった。だが、他社と同じ道を選ばなかったからこそ、他の市場を選ぶことができ、今の旭酒造がある」と意に介していない。
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