しかし、ビジネスが軌道に乗り始めた旭酒造をさらなるピンチが待ち受けていた。「獺祭」の原料としている高級米「山田錦」の提供を、地元・山口県の農業協同組合が拒んだのだ。
桜井氏が何度依頼しても、農協は「もう種もみがない」「理由はいえないが、とにかく無理だ」などと主張。地元に根付いたビジネスモデルを捨てた同社に対し、コメの提供をかたくなに拒否したため、旭酒造は原料が手に入らなくなったという。
ピンチはこれだけではない。旭酒造は90年代後半、さらなる飛躍をとげるため、当時の売上高(2億円)を上回る2億4000万円を投じて“地ビールレストラン”を開業した。だが客は入らず。3カ月で閉店を余儀なくされたほか、愛想を尽かした日本酒づくりの職人、杜氏(とうじ)が一人残らず会社を去ってしまったという。
原料を仕入れられず、多額の損失を計上し、職人もいなくなる――。一般的な酒メーカーであれば倒産しているような状況だが、桜井氏は闘志をたぎらせていたという。
「人生が終わっていてもおかしくない状況だが、『この先は、やりたいことしかやらない』と肝に銘じた。人に遠慮することはやめた」
そう決めた桜井氏は、岡山県や兵庫県の「山田錦」を栽培する農家に直談判。農協を介さずに直接コメを仕入れる契約を締結し、17万6000トンに上る「山田錦」の調達網を開拓した。
また、杜氏に頼らず、酒づくり以外の仕事を任せていた一般社員と一緒に酒をつくることを決断。酒づくりを徹底的にデータ化・マニュアル化し、社員に共有したことで、高品質な酒をつくれる社内体制も構築した。
杜氏は60代前後の人が多く、後継者不足が課題となっているが、旭酒造の社員の平均年齢は約26歳。職人がいなくなったことで若返りに成功したのだ。現在の社員数は、一般的な酒メーカーの2〜3倍に相当する約120人に上る。
また、杜氏は「日本酒づくりに適した気候である冬季にしか稼働せず、夏季は地元に戻って百姓として働く」との伝統的な働き方を続けていたため、夏場は酒づくりに携われないというデメリットもあった。
そこで、彼らが去ったことを逆手にとり、桜井氏は蔵に温度管理システムを導入。年間を通して内部を低温に保ち、季節を問わず「獺祭」の製造・販売を行うことで、需要に対応できる体制を整えた。
桜井氏は「本当においしいお酒をつくるには、高品質な原材料、優秀なスタッフ、そして設備が欠かせない。『常識外れだ』といわれることもあるが、当社は酒づくりへの投資は惜しまない」と自信を見せる。
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