「楽天での僕の役割は何だろうと考えた時に、やっぱり次の世代の経営者や、楽天の内外にかかわらず活躍できる人材を育成することだと思いました。でも、僕はそれをうまくやれなかった。マネジメントとか人材育成とか、まったく下手くそだった。たぶん、僕に育てられたというスタッフは、そんなにいないと思います。そのくらい僕には苦手なことでした」
ストックオプションなどで莫大な創業者利得を得ていたことも戸惑いに拍車をかけた。
「田舎から出てきて、よく分からないまま始めたことがこういうふうに波に乗って。もちろん頑張りましたけれど、これは見合った報酬なのか、よく分からない状態だったんですよね。どう使っていけばいいんだろうとか、ちょっと不自由な感じはすごくあって、当時の僕の中では葛藤がありました」
さらに、本城が自身に課していたリミットも目前に迫っていた。
三木谷が興銀を辞め、起業したのは30歳。その時、24歳だった本城は、「僕も30歳になったら独立します」と三木谷に宣言していた。本城はその後の怒涛の日々の中でも忘れることなく、いざ30歳を目前にしたある日、「三木谷さん覚えていますか? 三木谷さんが30歳で独立しているので、僕も30歳になったら独立すると言っていたんですよ」と三木谷に念を押す。
ところが、三木谷はこう言った。「おまえ、それは状況が違うだろう。俺は銀行でサラリーマンだった。おまえは曲がりなりにも上場企業の副社長だよ。そう簡単にはいかないよ」
「30歳で辞めることは大事な自分自身との約束なんです」と本城は食い下がるが、三木谷も引かない。「じゃあ辞めて、何がやりたいんだよ」「宿をやってみたいです」「じゃあホテルでも旅館でも買収するか」「そういうことじゃなくて……」。
宿では納得してくれない。では、何なら。下手くそなマネジメント。譲れない自分自身との約束。持ちすぎたお金。しばし自分と見つめ合った本城は、「教育」というキーワードにたどり着く。
「やるなら、面白くて、難しくて、長く続けられること。あとはインパクトがあって、やりがいがあることに挑戦したかった。楽天で成し遂げられなかった、人を育てたり、人が育つ環境を整えたりすることというのは、社会に置き換えると学校だな、教育だなと。30歳から取り組むにはちょうどいいと」
「そう思って、三木谷さんに『僕、学校を作ります』と話したら、『おお、学校か。今度、(プロサッカーチームの)ヴィッセル神戸を買うことになったけど、学校とスポーツは近いな。じゃあ神戸に行かないか』という話がポンポン出てくるんです(笑)。最終的には快く送り出してくれたんですけれどもね」
後付けで幾らでも聞こえの良いストーリーを作ることはできるが、ありのままを素直に語るところが、本城らしい。
かくして02年11月、本城は取締役副社長を退任し、翌月には教育事業を手掛ける準備会社として、自身の出身地である北海道音別町から名を借りた「音別」を立ち上げる。
これが、風越学園に続く茨の道の突端である。ここから、本城は、軽々しく「学校を作る」などと考えたことは安易だったと思い知ることになる。
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