この記事はティネクトのオウンドメディア「Books and Apps」より転載、編集しています。
「コミュ障」という言葉がある。正確に書くと「コミュニケーションに関する障害(を持つ人)」となるが、これは本来の「障がい者」という意味で使われているのではなく、単に「コミュニケーションの下手な人」という意味だ。
さて、この「コミュ障」だが、よくネタにされる。友達付き合いや、仕事においてもコミュニケーションの能力が重要であるからなのだろう。
だが、私はいつも不思議に思っていた。本人の認識と、実際の能力のズレについてだ。
例えば、自分自身で「コミュ障です」と言っている人であっても、仕事を進める上で特にコミュニケーションに苦労していなかったりする。また、一見すると社交的で、仲間とうまくやっているのに、実は仕事でコミュニケーションが非常に取りづらい人がいたりする。
これは一体、どういうことなのだろう。「コミュ障」の本質とは、一体何なのだろう。
そう思っていたところ、先日読んだ一冊の本が、これらの疑問についてほぼ完全に答えてくれた。北大の名誉教授だった社会心理学者の山岸俊男氏の『安心社会から信頼社会へ』という本だ。
この本によれば、私がイメージしていた「コミュ障」とは、つまり「人を信頼するのが下手な人」ということに尽きる。
詳しく見ていこう。
山岸氏は、「信頼」を次のように定義している。
「信頼」は、相手が裏切るかどうか分からない状況の中で、相手の人間性のゆえに、相手が自分を裏切らないだろうと考えることだ。
そして面白いことに、山岸氏は、信頼と対になる概念として「安心」を挙げている。安心の定義は次のようなものだ。
「安心」は、相手が裏切るかどうか分からない状況の中で、相手の損得勘定のゆえに、相手が自分を裏切らないだろうと考えることだ。
信頼は不確実性を大きく残したまま、人に期待を持たなければならない。
だが、安心は、システムやルール、約束事などによって、「相手が裏切る」という不確実性を大きく減らしている。
例えば、「裏切ったら処刑する」という“鉄のおきて”があるマフィアにおいて、ボスが子分に持つのは信頼ではなく、安心である。
三蔵法師が孫悟空に対して「頭を締め付ける輪があるから、裏切らないだろうと考えること」も、信頼ではなく、安心である。
山岸氏の洞察の素晴らしい点は、この「信頼をベースにした人間関係」と、「安心をベースにした人間関係」を区別しているところにある。
つまり、安心は「直接人を信じなくとも仕組みによって機能」し、逆に信頼とは文字通り「人間を信じている」からこそ、成り立つということだ。
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