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蒲田 初音鮨物語 利益もこだわりも捨てた鮨屋が“世界に名だたる名店”になるまで蒲田 初音鮨物語(2/3 ページ)

» 2019年06月17日 08時00分 公開
[本田雅一ITmedia]

独特の空気感漂う蒲田を拠点に

 蒲田初音鮨があるのは、東京23区の中で最南に位置する大田区。その区内にある「蒲田」は、羽田空港にほど近い、湾岸にある街だ。

 蒲田駅には大きな商業施設が一体化され、その駅前地区を中心に、にぎやかな繁華街が広がっている。

 多くの人が集まり、自然にさまざまな娯楽・風俗が生まれた街――ここ蒲田は、大田区の心臓部である。

 一方で蒲田には、“場末”という言葉がしっくりと来る。独特の、他の東京の街にはあまり感じられない空気を感じさせる街でもある。

 やや暗い街灯の中に居酒屋や風俗店の看板が並ぶ様子。さらに奥に進んでいくとやや寂れた商店街――脳裏に浮かぶ蒲田にはまた、そんなうらぶれた表情がある。

 その蒲田も、かつては華やかさに包まれた活気のある街であった(今はその名残しかとどめていないが)。

 蒲田と言えば、有名なのは『蒲田行進曲』だろう。

 JR蒲田駅で列車が発車する際に流れるそのメロディー。深作欣二監督が1982年に大ヒットさせた同名映画における、松坂慶子、風間杜夫、平田満の三人の歌声を脳裏によみがえらせ、思わず口ずさみそうになる人もいるはずだ。

 しかし、そのオリジナルは、1929年の松竹映画『親父とその子』で使われた川崎豊と曽我直子のデュエット曲である。それは、欧州で上演されていたオペレッタの曲に、堀内敬三が日本語の歌詞を付けたものだった。

 この楽曲『蒲田行進曲』を元に作られたのが、天才的な劇作家“つかこうへい”の戯曲『蒲田行進曲』であり、その脚本を映画向けにアレンジし、深作が監督したのが1982年の映画『蒲田行進曲』だった。

 この地、蒲田をテーマにした楽曲が、戯曲、映画としてリメークされ、全国的な大ヒットとなっていった理由の一つは、ここ蒲田が、かつては日本のハリウッドともいえる“映画の街”だったからでもある。

 無声映画時代、歌舞伎興行から派生して映像作品を作って発展した「松竹キネマ」(現・松竹)。その松竹キネマが、現代劇を撮影するスタジオとして1920年(大正9年)に開所したのが、現在の蒲田五丁目にあった「松竹蒲田撮影所」。

 松竹キネマは、ハリウッドから映画技師を招き、専属の男優・女優によるスター・システムを構築し、黎明(れいめい)期だった日本の映画産業をけん引する。蒲田は、比喩などではなく、まさに日本のハリウッドという表現がぴったり当てはまる土地だったのだ。

 大スターの男優と女優、そこに大部屋の貧乏役者が絡む『蒲田行進曲』の脚本は、“つか”が見て、感じていた蒲田という街の日常でもあったのである。

 その松竹蒲田撮影所は、1936年(昭和11年)に閉鎖されることになる。太平洋戦争が終結する9年前のことだ。

 それまでの日本は、欧米列強からの圧力を感じつつも、まだ平和を楽しんでいたが、1936年の1月に日本はロンドン海軍軍縮会議から離脱、さらに翌月には2・26事件が勃発(ぼっぱつ)している。そうしてその後、1937年の盧溝橋(ろこうきょう)事件から日中戦争、太平洋戦争へと向かっていくのだが、松竹蒲田撮影所が閉鎖されたのは、そうした時代背景を受けて、蒲田が工業地帯へと変貌していった影響でもあった。

 1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災前のこの街は、(芝、高輪、田町周辺の埋め立てから始まった)東京臨海部に広がった工業地帯に対して、部品などを供給する町工場の拠点としての役割も担っていたが、大震災を契機に、多くの工場が川崎、横浜方面に規模を拡大し始めると、東京湾の工業地帯は、中心地域が西へ西へと移動していく。だが、蒲田の役割は変わっていかなかった。

 そして迎えた太平洋戦争で、この京浜工業地帯はアメリカの空爆により壊滅的な打撃を受け、蒲田も例に漏れず焼け野原となるが、蒲田を救ったのもまたアメリカだった。

 朝鮮戦争の勃発とともに、町工場は再びその稼働率を上げていき、間もなく戦前と同じように栄え始め、またたく間に発展していく。

 そのうち、高度成長期における京浜工業地帯の急激な発展に、用水供給などのインフラが追い付かなくなり、渋滞問題や地価高騰、人件費高騰といった問題を抱えるようになると、昭和30年代後半からは大きな工場が地方へと移転し始め、工場の街としての蒲田は寂しさを感じさせるようになっていった。

 こうして中小企業の経営者と町工場の労働者を中心に発展してきた蒲田の街は、今や、小さな商店と居酒屋、それに風俗店が入り組んで併存する街となり、雑多な空気感を生む場所へと変わったのだ。

 この街が放つ「東京の中心部とは異質」だと強く感じさせる匂いの背景には、こんな歴史があった。

地域住民もうわさにしか知らない謎の鮨屋

 さて、そんな蒲田の街。JR蒲田駅西口から続く細い道沿いは、ほんの少し前まで、(駅の真反対にある、再開発が進んだ)京急蒲田駅側よりもずっと古い、昭和の風情を残すエリアだった。

 良い意味でも悪い意味でも“蒲田らしい雰囲気”を色濃く残してきたのが、この「西蒲田」であり、現在も、そこにはその面影がうっすらと残っている。

 西蒲田の雑多なエリア――計画的な街づくりは駅前だけで、あとは身勝手に発展してきたようにしか見えない地域に、それまでの風景が嘘だったかのように、急に広々と見通しが良くなる場所がある。

 それはちょうど、日本工学院専門学校・蒲田キャンパス3号館のあたり。そして、その校舎とは道路を挟んだ反対側に、つた蔦の蔓(つる)が美しくから絡みつき、かべ壁におしゃれな「HATSUNE」の文字が施された鉄筋の建物がある。

Photo 初音鮨の外観

 その外観には、見事に和を感じさせる風情が盛り込まれ、玄関口とは別の方向には店舗への入り口が配置されている。

 「再開発の進行は、街の空気を大きく変えていくものだ」と思いながら通りすぎることなかれ。実はこの建物、周辺の開発とは全く関係なく、ずっと以前から蒲田という街を見続けてきた店なのである。

 周囲の雰囲気とは異なる外観を持つこの店の存在を、周辺の住民はどう思っているのか? 夏祭りに集まった蒲田の住人たちをつかまえてみると、「ああ、あのお店ね。そう、私なんか行ったことがないんだけど、なんだか“ものすごく高いお寿司屋さん”らしいわよ」。

 およそ蒲田にあるとは思えない、なぜか和洋折衷の、しかし、破綻することのない雰囲気を放つその建物は、蒲田に住む者もうわさにしか知らないという、超人気で予約が取れない謎の鮨屋。

 この鮨屋こそが、冒頭でご紹介したこの本の舞台、「蒲田初音鮨」なのである。

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