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» 2019年06月17日 08時00分 公開

蒲田 初音鮨物語:蒲田 初音鮨物語 利益もこだわりも捨てた鮨屋が“世界に名だたる名店”になるまで (1/3)

客足もまばらで、つぶれかけていた場末の鮨屋、「蒲田 初音鮨」。それが突然、“世界中から予約が入る名店”となったのはなぜか?

[本田雅一,ITmedia]

この記事は、本田雅一氏の著書『蒲田 初音鮨物語』より第一章を転載、編集しています。


 客足もまばらで、つぶれかけていた場末の鮨屋(すしや)「蒲田 初音鮨(かまた はつねずし)」。それが突然、“世界中から予約が入る名店”として名を馳はせるようになった背景には何があったのか?

 「5年後の生存率は、10%以下」――当初は「銀座の名店に負けたくない」とばかり、競争・闘争の世界にいた鮨屋のオヤジが、妻の余命宣告と闘病をきっかけに、店を大きくする野望を捨て、利益もこだわりも全て捨てて、ただ妻とお客のためだけに鮨を握りはじめた時――。これはある鮨屋夫婦に起きた小さな奇跡の物語。

Photo 蒲田 初音鮨の親方、中治勝さんと妻のみえ子さん(撮影:飯塚昌太)

“半完成品”を手渡し、最後の調理は客の“口の中”

 「ではみなさま。 ご来店ありがとうございます」

 そう親方の勝(かつ)があいさつすると、その妻でおかみのみえ子が、さらしをしいた上にまだ湯気が見える炊きたての銀シャリ(=白飯)を盛った笊(ざる)を持って、ツケ場(鮨屋のカウンターの内部)へと入ってくる。

 勝は、待ってましたとばかりに「今、ちょうどた炊きたてのご飯を酢飯にして参りましたので、みなさんにシャリの出来を、まだ赤ん坊の状態から見ていただこうと思っております。お懐石では“一文字ごはん”なんて言ったりしますが、あなたのためにこの炊きたてをご用意いたしました」と語りかける。

 “何よりもシャリが大切”。そう言う鮨屋のオヤジは多いが、本当に羽釜(はがま)で炊いたばかり、酢を落としたばかりの酢飯を持ってくる鮨屋はまずない。炊きたての飯に大量の酢を投入した直後は、揮発する酢が鼻を刺激しすぎるからだ。

 しかしこの店の親方は、全くそんなことを気にする素振りも見せない。

 「先ほど、赤ん坊なんて言いましたが、このあと温度が下がるにつれてシャリの粒が立ってしっかりとしてきます。そこからさらに温度が下がり、徐々に枯れていくさまを楽しんでいただきたいのですが、ちょうどその中間、働き盛りの頃に、中トロを合わせていきます。この時のシャリは、もう少しバラけが良くなって、酢もしっかりとした味わいです。最後の枯れる直前には、鉄火とかんぴょうをパリッとしたのり海苔(のり)と合わせて、召し上がっていただきます」

 温かく、酢を振ったばかりのシャリ。生まれたての赤子のように温かく柔らかいその触感が変化していくさまをお客たちの脳裏に浮かばせながら、そこにどんなネタを合わせていくのか、想像をかき立てる。

 「では本日、およそ2時間半のおつきあい。精一杯、務めさせていただきます。よろしくお願いいたします」

 勝が前口上を語り終えると、そこからは師匠がまな弟子に教えるように、おいしさの秘訣(ひけつ)をひとつひとつ、お客にやさしく語りかけながら、「蒲田初音鮨」の舞台の幕が開く。その先は、他のどんな鮨とも似ていない、親方・中治勝だけの鮨劇場、初音ワールドが怒濤(どとう)のごとく続いていく。

 ある日の最初のネタは、その日に久里浜で揚がった3.5キロの地ダコの雌。

 「しっかりしたアンヨ。ゆで上がった足を見るだけで、それが雌だって分かる。何しろこのライン、“セクスィ〜”でしょ。おっ? 分かります? お客さん、セクスィ〜担当ですね。このタコ、何より香りを楽しんでください。“タコの香り”みなさん、あまり意識したことがないでしょう? 香りを楽しむには熱すぎてもダメだし、冷たすぎるともっとダメ」

 そう話しながら、あっという間にネタに包丁を入れ、整えていく。

 「みなさん、このタコ、夏が旬だってご存じです? 砂地でハナジャコとか甲殻類を好んで食べて、初夏になるとワタリガニが渡ってきますから、これを地ダコが食べると、タコが最高にうまくなる。ところが近年は冬でも黒潮が蛇行して、江戸前の水温が上がってくる。ほら、エルニーニョだかラニーニャだか、突破力のあるサッカー選手みたいな名前のヤツのおかげでね、真冬だってのに3.5キロの質の高いタコが揚がってくる」

 整えたネタを並べたお皿を手に持ち、勝は続ける。

 「ほら、お皿の底を触ってください。気持ち良くなるぐらいの温かさ。その温もりを、炊たいたばかりのシャリの温度と合わせて、召し上がっていただきます」

 「しかし、その前に。うちのお店、ちょっと変わったところがありまして、みなさんもうお気付きかと思いますが、まずは“オヤジがよく喋る”。だいたいのお客さん、これ言わなくても、1分30秒ぐらいで気付く。タクシーの運転手さんにもいるでしょう? やたら喋るオヤジ、本当に前見て運転してるのかな? と心配になる人もいるぐらい。そうかと思えば、何を話してもウンともスンとも言いやしない。『聞こえてますか!?』『聞こえてますよ!』と返事するような人もいる。なかなかちょうどいいってあんばいの人には当たらないもんで」

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 笑いの沸点が低い客だと、なおさらに勝の舌は回り始めるが、全ては最高の食事でもてなす脚本の中に組み込まれた流れ。その日の客の構成、雰囲気を読み取り、カウンターに並ぶ8人の興味を引きながら、最後は食の話題へと引き込んで、一体感をもたらす。

 お客たちから笑顔を引き出し、息つく暇もなく新たなる興味を引くその話術。はじめて勝の喋りに接したお客は、その滑らかな舌から生まれる言葉を心地よく感じつつも、その言葉の深さを少しずつ感じはじめ、そして圧倒されていく。

 「さて、もう一つ変わったところ。みなさん、手のひらを上に向けて、人差し指と中指を伸ばしていただき、その上にワタクシが鮨を乗せる。それが初音の手乗り鮨。親指を添えてちょこんとかわいく乗ったお鮨を、そのままひっくり返しながら、天井を見上げて“あ〜ん”と口に入れ、舌の上にネタが乗るように。すると、まずはタコの温度感が分かりますね。“なるほど、このオヤジはこのぐらいの温度感がいいあんばいだって考えているんだ”と感じることができる。鮨を握るオヤジと、食べる客。そのコンセンサス、意思の疎通がはかれるわけでございます」

 そう話しながら一貫目を握り、そこに酢橘(すだち)を搾って落とす。

 「そして、そのまま舌の上で3秒、気の長い人で5秒。すると酢飯と反応して、口の中に“ジュワッ”と唾液が出てきます。みなさん、ここで唾液の酵素、酢飯、そして鮨ネタをかんで一体にすることでうま味を引き出し、口の中で料理として完成させてもらいます。“半完成品”を手渡しますので、最後の調理はぜひご自分のお口の中で完成させて、楽しんでください」

 そう話し、いつもカウンターに一人はいる常連さんに、最初の“お手本”を見せてもらうのが、毎晩くり返される初音の恒例行事。ここ蒲田初音鮨は、お客たちにエンターテインメントを提供するとともに、鮨職人としての勝が持つ、あらゆる知識、握る鮨に込められた創意工夫をあからさまに伝える場でもある。それは勝にとって極めて大切な儀式なのだ。

“手乗り鮨”で“鮨のおいしさ、奥深さ”を客に届ける

 曽祖父から続く、この初音鮨。

 勝は幼少期から祖父、父が握る鮨を、(お客さんにそうすることを求めるのと同じように)手に乗せてもらって食べてきた。しょうゆもつけず、手に渡された鮨を食べていると、子どもながらに素材の味、素材を生かすことの大切さ、温度の違いによる味わいの違い――いろいろなものを感じることができた。

 この手乗り鮨。実は、明治26年から続く初音鮨の伝統である。

 江戸時代からある日本を代表するファストフード「鮨」。初音の歴史も、立ち食いから始まっている。みんなで立って食べていると、「ちょいと俺にも食わせな」と隙間に人が横入りしてくるような中では、一貫ずつ握ってカウンターに置いてもいられない。舗装もされていない砂利道で、ひとつひとつの鮨を昔はみな手渡しで食べさせていた。

 勝が大人になって幼少の頃の記憶を引っ張り出してみると、あの手渡しが一番うまかった。何も言わずとも、温度、握りの具合、さまざまな要素がそのまま手から手へと伝わり、口の中で“ほどける”感覚も正確に思い出せる。

 温度と食感を通じて鮨の味を高めたい。そんな思いをお客さんにダイレクトに伝えたい。初音鮨の伝統を受け継ぐだけでなく、客たちにもっと“鮨のおいしさ、奥深さを味わってほしい”――そう願う中で行き着いたのが、「自分が幼い頃から受け継いだやり方を踏襲し、お客さんに伝えていこう」という考え方だった。

 面白おかしく、とめどなく喋り続ける勝のトーク――気をつけていなければ気付かないだろうが、よくよく気をつけて聞いてみると、(時折のぞかせるおかみさんへの愛情表現を除く)時間のほとんどを、お客さんに食べてもらう鮨のネタ、握り方、調理方法などの解説に費やしているのが分かる。

 世界一と自信を持って言える素材を届けてくれた漁師たちへの敬意、そして、その素材をいかにして最高の状態で届けようとしているのか――勝は、自分が握る鮨に込めたそうした思いをお客に伝えるだけなく、鮨という料理の「伝統」「独自にあみ出した工夫」を客たちに伝えることで、何度も足を運ぶ客たちを“もっと口うるさい客にしよう”としているのだ。

 そうすることで、曽祖父の時代から続いたこの蒲田初音鮨の“伝統”と“業(わざ)”を、余すことなく伝えられる――一聴すると冗談ばかりの面白オヤジだが、しかし、その心は、その計算された完璧な鮨の“伝統”と“業”、それにおかみと二人で作り上げてきた自分たちが持つ全てをお客たちに伝えることにある。

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