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ワンマン社長の奴隷、3500万円の借金地獄――“31歳無職の男”は「伝説の居酒屋カリスマ」にどう成り上がったのか【前編】熱きシニアたちの「転機」(3/4 ページ)

» 2019年06月28日 05時00分 公開
[猪瀬聖ITmedia]

悲惨な生活

 「これからは携帯だ」という社長の発言は突拍子もないように聞こえたが、確かに携帯電話の黎明期だった。当時の携帯は大きくてずっしりと重く、肩から提げるための紐(ひも)がついていた。乗用車に搭載する需要もあった。山本さんは、社長に言われるまま、大手家電メーカーに営業に行き、電話機の基盤部分とアンテナ部分の製造の受注に成功した。それを川崎市内の精密機器メーカーに作らせたら、「できちゃった」(山本さん)。その後、米国向け携帯電話機の製造と検査業務の受託にも成功。米国向けは飛ぶように売れ、社長の会社は急成長した。

 しかし、山本さんの生活は「悲惨だった」。取引先の大手家電メーカーが携帯電話のアンテナ部門を栃木県に移設したのに伴い、社長の会社も同県北部の西那須野町(現那須塩原市)に工場を新設。山本さんも栃木県に引っ越し、20代半ばで工場長に就任。約30人のパートを管理する管理職になった。しかし、毎日3時間の睡眠で懸命に働いたにもかかわらず、給料は一向に上がらない。ストレスばかりが溜(た)まった。かたや社長は、ベンツやフェラーリを乗り回し派手な生活を満喫していた。

 悲惨の理由はそれだけではなかった。社長と一緒に飲みに行くと飲み代を払わされたり、社長のお古のベンツやロレックスを無理やり買わされたりした。揚げ句の果てに、工場近くの別荘地の土地まで購入させられた。当時、首都移転の話がマスコミで盛んに報じられ、工場のある地域は新首都の候補地の一つだった。何か買わされるたびにローンを組んだため、借金が雪だるまのように膨らんだ。

 だが、山本さんは会社を辞めなかった。というより、辞められなかったのだ。「社長は極真空手の心得があり、ヤクザにも平気で喧嘩(けんか)を売るような人物。怖くて、辞めますと言い出せなかった」。実際、些細(ささい)なことから暴力を振るわれ、頭から血を流したこともあった。その時はさすがに警察に相談したら、社長が謝った。

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