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「鮨屋はもう斜陽」――四代目はなぜ、ジリ貧の店を継ぐと決めたのか落ち目の鮨屋を世界に名だたる名店に変えた男(1/5 ページ)

» 2019年06月28日 08時00分 公開
[本田雅一ITmedia]

この記事は、本田雅一氏の著書『蒲田 初音鮨物語』より第二章を転載、編集しています。


 客足もまばらで、つぶれかけていた場末の鮨屋(すしや)「蒲田 初音鮨(かまた はつねずし)」。それが突然、“世界中から予約が入る名店”として名を馳せるようになった背景には何があったのか?

 「5年後の生存率は、10%以下」――当初は「銀座の名店に負けたくない」とばかり、競争・闘争の世界にいた鮨屋のオヤジが、妻の余命宣告と闘病をきっかけに、店を大きくする野望を捨て、利益もこだわりも全て捨てて、ただ妻とお客のためだけに鮨を握りはじめた時――。これはある鮨屋夫婦に起きた小さな奇跡の物語。

 第1章の前編・後編、2章の前編に続いて、2章の後編をお届けします。

虎の子の土地と建屋にも次なる災難が

 少年時代の勝(初音鮨 店主)の瞳には、まるでヒーローのように映っていた蒲田 初音鮨・三代目当主の功だったが、しかし、蒲田 初音鮨の経営は、当時、大きな問題を抱えていた。

 その状況は、よくいって現状維持。実際にはジリ貧で、豊かさへと続く道などどこにも見えない。火の車を回していく功の肩には、大きな重荷がのしかかり、その身体と精神は、少しずつ蝕まれていた。

Photo 日本でも有数のネタが集まってくる蒲田 初音鮨(撮影:飯塚昌太)

 時は昭和、成長期の京浜工業地帯からほど近い街での話である。当初は、蒲田に集まる中小の工場は景気も良く、頻繁に宴会の予約も入っていた。「駅前を追い出されちまったからねえ。場所が悪いったら、ありゃしない」と、おかみである功の妻・繁枝(しげえ)が文句を言いながらも、蒲田 初音鮨には個人客も宴会予約もまだしもよく入っていた。

 ところが、虎の子のはずだったその80坪の土地と建屋も、祖父・金太郎と父・功が同じツケ場に立っていた頃、その半分以上の50坪を借金のカタに取られてしまう。

 西蒲田の蒲田 初音鮨。現店舗の礎となる店を育てた金太郎だったが、目に入れても痛くない、一番かわいがっていた下から二番目の娘とその亭主に頼まれ、ある事業の連帯保証人になってしまったがための借金だった。

 昭和30年代、学のあるものは、一攫千金を夢見て起業を目指したものだった。当時は、未曾有の大復興を成し遂げる真っ最中の日本。その姿は、21世紀における中国の目覚ましい発展の姿を思い浮かべると理解しやすいかもしれない。毎日のようにお金持ちが誕生し、貧乏だった日本の企業が次々に世界へと進出していく。その発展を支える中小企業の成長も著しく、新たなビジネスの種があちこちで芽吹いていた。

 “一発当てる”という言葉に、博打(ばくち)のニュアンスなどなく、努力すればかなうものであるかのように感じられていた時代だったが、もちろん、ずさんな計画と経営では、事業はたちどころに立ちゆかなくなる。

 娘とその婿の事業は失敗し、どこかへと姿を消した娘婿の代わりに莫大な借金を背負った金太郎は、蒲田 初音鮨の営業権はもちろん、80坪の土地まで全て抵当で取られてしまうことになった。

 しかし、代々鮨屋しかやってこなかった中治家である。店がなければ、家族全員が路頭に迷う。せめて功が、金太郎から引き継ぐはずだった分の財産だけでも残せないか……と奔走したのが、功の妻・繁枝の実家であった。

 繁枝の実家は、神奈川県平塚で森田一郎が営んでいた「若葉鮨」。成長期の日本で、インフレで借金をしやすい環境だったとはいえ、蒲田に店を残すのは大変だったことだろう。中治家は、森田の精一杯の援助を得て、借金だらけになりながらも、なんとか30坪分だけの土地と蒲田 初音鮨の営業権を功の手元に残すことに成功したのだ。

 かつての蒲田の街を捉えた航空写真を見ると、戦後すぐの昭和20年初めには、何もない野原のように荒廃した土地の中で、蒲田 初音鮨がしっかりとその店舗を構えているのが見て取れる。昭和30年台になると、それがさらに立派な建屋になっていく。しかし、昭和40年台に入った1965年になると、その店舗は半分以下の規模に小さくなっていた。

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