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「鮨屋はもう斜陽」――四代目はなぜ、ジリ貧の店を継ぐと決めたのか落ち目の鮨屋を世界に名だたる名店に変えた男(4/5 ページ)

» 2019年06月28日 08時00分 公開
[本田雅一ITmedia]

「鮨屋はもう斜陽」――父の言葉に背中を押されて大学へ

 1981年(昭和56年)には、ロナルド・レーガンが第40代米国大統領に就任。超タカ派といわれたレーガンだが、宇宙衛星を用いて国防を強化するスター・ウォーズ計画など、彼の採った大胆な軍備予算拡大方針がソビエト連邦の焦りを生み、後にソ連の国家財政破綻と内部崩壊へとつながっていく。1985年(昭和60年)にはソ連でミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任し、そのことが1989年(平成元年)の米ソ冷戦集結をもたらし、さらには、冷戦終結後の新たな世界の枠組みをもたらすことになっていく。

 こうした、いわば“ひと時の世界平和”と“グローバリズム”の進行が、日本をバブル景気へと誘っていく。80年代初頭から冷戦終結までの間は、日本が世界の中での存在感をさらに増していくための助走期間となった。

 当時の日本の工業力は、世界中に進出した自動車、電機メーカーのブランドが象徴していた。ニューヨーク市タイムズ・スクエアにあったSONYロゴの巨大ディスプレイ。トヨタの車はその品質を誰もが認め、パリ・ダカールラリーでは三菱自動車のパジェロが無敵の強さを発揮し始め、国内では新たな基準の高級車として“ソアラ”が一大ムーブメントを起こしていた。

 その頃、勝はといえば、駒澤大学の経済学部第2部、すなわち“夜間部門”へと進学することを選んでいた。具体的に、将来自分が就く職業のことを思い付いていたわけではない。兄の創は当時、大学に進学せず、高校を出るとすぐに鮨職人としての修業に出されていた。勝もそのあとを追い、自分もどこかに住み込んで、何らかの仕事に没頭することもできただろう。

 しかし、最終的には、父が勧める“鮨職人以外の道”で稼ぎを得られる就職先を、卒業までに決めよう、と思っていた。そうした考えには、より一層、複雑な迷路に迷い込んだ蒲田 初音鮨の状況も影響していた。

 家庭内、学校内の暴力が表面化し、社会問題として大きなテーマとなっていた頃、将来、望まぬ店を継ぐ運命にあった創と父・功の関係も悪化していた。

 創が高校生になると、兄と父の関係は極めて高い緊張感を保ちながらも、時として、互いにその気持ちを爆発させることが増えていく。

 功は、生まれた時期や時代が悪くて、学こそなかったものの、鮨職人としては真面目に、そして独学ながら料理を学ぶ熱意にあふれながら、ジリ貧の蒲田 初音鮨の暖簾をなんとか守り続けてきた。

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 しかし、肉体的にも精神的にも限界を迎えつつあった功に、長男との関係が、追い打ちをかけた。

 蒲田の街の景気は悪くない。しかし、さらに収入が増えた上客の中小企業経営者たちは、夜の享楽を、地元・蒲田ではなく、華やかな銀座へと求める傾向を強めていく。蒲田には、銀座にあるような高級な鮨屋など、ありはしない。地元で愛されている、といえば聞こえは良いが、当時の初音鮨は、出前と工場の宴会ばかりしか入らない鮨屋でしかなかった。

 創は、高校を出たあと、修業先から1〜2年で返されてくると、父とともに蒲田 初音鮨で仕事を始めるが、そこでもやはり親子の諍い(いさかい)は絶えない。

 そんな中、ついに功はその心を病んでしまう。

 父が勝に“大学に行け”とより一層強く望んだのも、そうした背景があってのことだった。

 「オマエは賢いから、大学に行ける。行けるんだから、行っておけ。そして、堅気になれ。二代目の頃の、地元の自治会を会長として率い、西蒲田を盛り上げていた立場にはもう戻れない。鮨屋なんてのは、今の時代にはもう斜陽なんだ。だから何か別のことをやれ。やりたいと思えることを探せ」

 そう言われて勝が進んだ大学の経済学部だったが、勝の中で、自分の道は定まってはいなかった。しかし、若い身体を思い切り使い、興味のあることに何でも挑戦しながら、本当の自分を探そうと決めていた。自分の将来を見つめ直し、近くに見え始めていた“昭和の次の時代”を生き抜く術を、感じ取ろうとしていたのだ。

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