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» 2019年06月26日 08時00分 公開

蒲田 初音鮨物語:「絶対に一流店にしてやる」という気負いが店をダメにする 落ちぶれた店で“鮨職人”が見失っていたもの (1/4)

勝が跡を継ぐ直前まで、極めて落ちぶれた状況だった初音鮨。“鮨職人”が見失っていたものは何だったのか。

[本田雅一,ITmedia]

この記事は、本田雅一氏の著書『蒲田 初音鮨物語』より第二章を転載、編集しています。


 客足もまばらで、つぶれかけていた場末の鮨屋(すしや)「蒲田 初音鮨(かまた はつねずし)」。それが突然、“世界中から予約が入る名店”として名を馳はせるようになった背景には何があったのか?

 「5年後の生存率は、10%以下」――当初は「銀座の名店に負けたくない」とばかり、競争・闘争の世界にいた鮨屋のオヤジが、妻の余命宣告と闘病をきっかけに、店を大きくする野望を捨て、利益もこだわりも全て捨てて、ただ妻とお客のためだけに鮨を握りはじめた時――。これはある鮨屋夫婦に起きた小さな奇跡の物語。

 第1章の前編・後編に続いて、2章の前編をお届けします。

街の発展とともに出足順調

 そもそも勝(かつ)が継いだ蒲田 初音鮨、元から一流店だったわけではない。いや、「絶対に一流店にしてやる」と息巻いていた、店を継いだ当時の勝を見た多くの者は、「思いとどまれ」と言いつつ、陰で笑っていたに違いない。

 明治から続く老舗の蒲田 初音鮨ではあるが、その未来は決したがごとく、勝が跡を継ぐ直前までは極めて落ちぶれた状況だったからだ。

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 蒲田 初音鮨の始まりは、勝の曽祖父、中治治次(はるつぐ)の世代にまでさかのぼる。

 治次は、その妻の実家、大田区大森に程近い森ヶ崎にある「鮨春」を継いで鮨職人としての腕を磨いたあと、町野小六(ころく)という人物と出会い、彼にオーナーになってもらって、大森の三原通り(現在の美原通り)に鮨屋を構える。

 こうして、小六と共同経営をし始めたのが、大森・三原通りにあった最初の“初音鮨”。時に1893年(明治26年)。富国強兵が叫ばれていた日本。日清戦争前年のことだった。

 何しろ明治時代のこと。鮨屋の息子といえば、身代をつぶす放蕩息子というのが相場だった。そこで、親は、デキの良い鮨職人を見極めて、娘を嫁がせた上で、暖簾(のれん)を継がせるのが一般的だった。

 そんなことが当たり前の時代に、治次は「鮨春」を受け継ぎ、そこで鮨職人としての経験を積み上げ、その腕を生かして、小六とともに、当時活況を呈していた湾岸の中でも伸び盛りの大森海岸での事業拡大を狙ったのだ。

 日本が工業力の強化を目指し、軍備を強化する中で生産力を高めていた時代、東京湾岸の景気は上向き続けていた。日清戦争から日露戦争、さらには第一次世界大戦で戦勝国となったことが、アジアの小国・日本にもたらした恩恵は決して小さなものではなかった。東京湾岸、田町周辺から川崎・横浜にまで広がっていた京浜工業地帯は、戦争景気に沸き、成長を続けていた。

 その影響は真面目に鮨屋を営む初音鮨にも少なからぬ恩恵をもたらしていたのだろう。

 治次は、息子・金太郎と小六の娘・町野高が夫婦になると、1920年(大正9年)に蒲田西口本通りに初音鮨の支店を設け、息子・金太郎夫妻にその店を託した。

 京浜工業地帯のど真ん中にある蒲田という街は、この時代に豊かになっていく国とともに、右肩上がりの成長を遂げている、中小の町工場で栄える街だった。

 その蒲田西口本通りといえば、蒲田駅前の目抜き通り。治次の目算通り、初音鮨の支店はトントン拍子で売り上げを増やしていった。1923年(大正12年)の関東大震災を一つの契機として三原通りの本店を閉めた初音鮨は、街の発展とともに売り上げを増やしていったその支店を、新たなる本店と定めて営業することになる。

 勢いのついた初音鮨は、この駅前店舗開業によって得た利益で、現在の蒲田 初音鮨がある場所に、80坪の広い土地を購入する。

 繁盛していた初音鮨には、仕込み専用の調理場、住み込みの従業員・お手伝いを住まわせる部屋などが必要だと考えられたからだ。

 時は、渋沢栄一が田園都市株式会社を設立し、1923年の分譲開始に向けて、イタチがよく出るというススキの野原(現在の田園調布)を開拓していたその頃のこと。初音鮨は、伸び盛りの繁華街として栄え始めていた蒲田に店の運命を託し、この地とともに成長していったのである。

 初音鮨が蒲田へ進出したのと同じ1920年。この年に開所されたのが、前述の松竹蒲田撮影所だ。『蒲田行進曲』の舞台となったこの撮影所の影響で、街は映画スターと芸子さんが闊歩する、華やかなあこがれの街へと変わっていった。

 現在の蒲田とは趣が異なる駅前の街には、人が多く集まってきた。

 当時の初音鮨は、新規に作った80坪の店舗を主に仕込みと店員の住居、宴会場として使い、駅前の出店では、立ち食い用カウンターで鮨を出す形での営業を続けた。“ちょっとイイ感じ”のファストフード店という、まさに鮨本来の営業スタイルを体現していたのだ。

 銀座のようなかしこまった名店ではなく、街の活気そのままに、カウンターに並ぶ人をかき分けて鮨を注文して食べる店。「ちょいと詰めてくれないかね」と声をかけ、好きなネタを読み上げて、代金を落としたら、パパッと食べてすぐに立ち去る。

 この頃の初音鮨は、住み込みの手伝いや弟子たちを抱えるだけの十分な規模を持ちつつ、「今後どう商売を広げていこうか」という夢を語れる、決して小さくはない鮨屋だった。地元に親しまれていた様子は、その後の第二次世界大戦を経て、高度成長期に至るまでなお、何不自由なく営業が続けられていたことからも分かろうというものだ。

 しかしそんな初音鮨にも、やがて大きな転機が訪れる。

 戦後の高度成長期に稼ぎ頭となっていた駅前店舗を、失うことになったのだ。

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