「勝くん。勝くんのお家は、鮨屋なんだってね?」
勝はある時、小学校の同級生から、そんな質問をされた。
「そうだよ。鮨屋だよ。それがどうかしたのかい?」
「鮨屋だと、毎日、鮨を食べられるのかい?」
日本初の回転寿司店「廻る元禄寿司」が現在の東大阪市にオープンしたのが1958年、その二号店が出店されたのは10年後の1968年だった。「廻る元禄寿司」はその後、1970年の大阪万博に出店したことで知名度を高め、フランチャイズチェーンが広がっていくことになるが、本格的に回転寿司店が増え始めるのは、「廻る元禄寿司」のベルトコンベヤーによる鮨の提供法が特許期限を迎えた1978年以降のことである。
それ以前は、銀座だろうと、下町の駅前だろうと、鮨を食べるには、職人のいる鮨屋を訪ねてカウンター越しにひとつひとつ注文するか、電話で出前を頼むほかなかった。
今のように、“大量に握ることを前提に、あらかじめネタが一貫ずつの切り身にして置かれ、さらにシャリも一貫ごとにまとまって配置されており、そのシャリの上にネタを重ねて握るだけ”――そんな時代が来るとは、誰もが想像もできない時代。
そう、鮨は現在よりもずっと“高級な食事”だったのだ。
鮨を食べられると想像するだけで涎(よだれ)が出てくる。だから、鮨を毎日食べられる環境を、うらやましいと思わない下町っ子なんて、いたはずがない。
余りもののネタで握られた鮨を食べることが日常の風景だった勝にとって、友達からの羨望の言葉は、新しい発見だった。
「そんなに鮨が好きなら、うちに遊びに来るかい?」
子どもの何気ない誘いである。
そうして数人の友達を自宅に連れてくると、父・中治功はいつも笑顔で迎えてくれた。住居と宴会場を兼ねた二階に友人を招き入れると、大きな寿司桶を当然のように持って上がってくる。
かっぱ巻きにかんぴょう巻、卵焼きの握り。決して豪華な鮨ではない。しかし、腹を空かせた成長期の子どもたちには、それでも十分なごちそうだった。
5人連れていけば10人前、必ずお腹いっぱいになるまで食べさせ、満腹・笑顔にして友達を帰していく。何回、友達を連れていっても文句を言わず、父・功は、笑顔で勝たちを迎え続けてくれた。
小学校から中学校、高校へと進学する中で、勝が連れてくる友人の数は増え、食べるネタの種類も、大人が喜ぶ魚が織り交ぜられていった。
しかし、何人連れて帰っても、何回連れて帰っても、功は決して一言も文句を言わず、いつも笑顔で少年たちを迎えていた。
勝が高校に上がると、文化祭・体育祭の役員・委員会の“打ち上げ”はいつも蒲田 初音鮨で行われた。育ち盛りの少年たちが、多い時には10人以上も集まって、そんな中でも、全員が必ずお腹いっぱいになるようにと、ざっと20人前をパパッと手早く握り、ニコニコうれしそうに息子の友人たちに寿司桶を差し出し、サッと仕事へと戻っていく父の姿。それが、勝少年の目に、スーパーマンのようにカッコ良く、誇らしく見えたことは、今も勝の脳裏に焼き付いて離れない。
「自分の息子が、娘が、10人もの友人を何度も連れてきて、“鮨を握って”と言ってきたら、自分は毎回、同じように笑顔で握ってやれるだろうか?」
勝があの頃の父の心を本当の意味で理解できるようになったのは、ずっとあとになってからのことだ。自分が大人になり、職人の目線を持って初めて、勝は、自分の父が「自分の息子のため、放課後に最高のエンターテインメントを提供しようと努力してくれていた」ことを心底理解できた。
少年の頃はまだ、その父の心のうちを、咀嚼(そしゃく)して“理解”できていたわけではない。だが、その姿は、心の中に強く刻まれていた。
「人々に笑顔を与えること、満足した気持ちを味わってもらうこと。足取り軽く、家路へとついてもらうこと」――どんなに忙しく、つらい時であったとしても、それを平然とやってのける父に対するあこがれの気持ちが、後の勝の人生を導くことになる。
テクノロジージャーナリスト、オーディオ&ビジュアル評論家、商品企画・開発コンサルタント。
技術を起点に経済的、社会的に変化していく様子に着目し、書籍、トレンドレポート、評論、コラムなどを執筆。
90年代初頭よりPC、IT、ネットワークサービスの技術、製品トレンドを追いかけ始めるが、現在、その取材対象はカメラ、オーディオ、映像 機器、映像制作、自動車、SNSなど幅広い分野に拡がり、さまざまなメディアにコラムを提供する。
オーディオ&ビジュアル専門誌ではAV評論家としても活躍。商品企画や開発アドバイザーとしても多くの製品に関わっている。
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