勝が父・功の姿をヒーローだと心の中で認め、あこがれていた頃の蒲田 初音鮨は、その財産の多くを失い、借金を抱えながら営業をしていた苦しい時代を迎えていた。
何しろ、当時の蒲田 初音鮨は、それまでの半分以下の30坪の土地に店舗兼住居を構え、急ごしらえで作った小さな二階建て。二階部分が住居兼宴会場となっていたのは、予算と土地に限りがある中で、居室と店舗を両立させるための苦肉の策だった。
そんな具合なものだから、夜に宴会が入ると、勝は3歳上の兄の創(はじめ、仮名)と二人で3畳ほどの納戸に入ってやり過ごさねばならない。そうした日々の背景を、勝が悟るのは、ずっとあとのことだった。
西蒲田では、かつて地元の自治会長を務めるほど人気・体力が充実していた金太郎だったが、店の凋落(ちょうらく)を境に、人目を避け始めるようになる。
他人と接点を持つことほど、金太郎が気力を充填(じゅうてん)できる機会はなかったのだが、一番大切にしていた店、開店時から手塩にかけて育ててきた店、それを一番大切にしていた娘の婿に、台無しにされてしまった。
それを悔やみ、めっきり気力を失い、身体を動かす気にもなれなくなった金太郎は、やがて胃がんを患い、寝たきりになってしまう。そしてそのまま回復することなく、寝込んでから半年でこの世を去ることになる。
それは、蒲田 初音鮨の凋落から、あっという間の出来事だった。小学校に上がる前の勝にとって、もっとも古い蒲田 初音鮨の記憶は、1965年、金太郎の葬儀が行われている様子だ。
その記憶の中では、蒲田 初音鮨の一階の戸は全て取り払われ、親類・縁者・近所の親しい者たちが集まり、割烹着を着た女たちが忙しく歩き回っている。葬式も終盤の火葬場へ向かう目前、ひつぎの中に横たわる金太郎が花に埋まっていくのに慌てた幼い勝は、動かない金太郎の肩を揺らしながら、「おじいちゃん! 大変だ! 起きろ!起きろ!」と呼びかけていた。人の死に初めて接した勝は、そうしてずっと声をかけ続けたが、聞こえてくるのは、周りからのすすり泣きの声だけだった。
勝が“まるでヒーロー”と、そのカッコ良さを心に刻み、あこがれた父・功だったが、蒲田 初音鮨は、駅前から外れたゴチャゴチャした下町住宅街の一角にある、もはや小さくて、みすぼらしい鮨屋となっていた。
店の常連である町工場の社長たちの足も、地元で顔が広かった金太郎亡きあとの蒲田 初音鮨からは次第に遠のき始めていた。
出前と宴会こそ入れども、蒲田 初音鮨に毎日足しげく通う良質の客がめっきり減ってしまうのに、さして時間はかからなかった。
もちろん、まだ日本の社会全体には、前へ前へと進む力があった。蒲田の街も、撮影所があった頃の華やかさこそないものの、工業の需要に支えられ、町工場の売り上げは好調。バブル経済前夜の世相の中で、社会全体はどんどん豊かになっていく。しかし、世の中が豊かになればなるほど、より一層、時代に取り残され始めた蒲田 初音鮨の凋落ぶりは、はた目にも際立っていった。
功は、料理が好きな男だった。鮨屋に生まれたことも、鮨職人という仕事に就いたことも、気に入っていた。
しかし、戦後のドサクサの中で仕事を始めた功は、鮨職人、料理人としての修業に出る機会に恵まれなかった。ずっと金太郎のあとだけを追いかけ、学び、うまい鮨こそ握れたものの、全ての料理は見よう見まねだった。
「今からでも日本橋や京都で、一から料理を学びたい」――口癖のようにそう話していた功は、落ちぶれていく蒲田 初音鮨にどうにか変化を付けるため、店から遠のく客足を、宴会で取り戻そうと思い付く。それからは毎日、宴会料理の研究に余念がなかった。
「場所が悪い」「景気が悪い」「客の質が悪い」「だから流行らない」――そんな愚痴を言う母や兄の言葉など気にせず、ただひたすらに料理に打ち込んだ――が、結果は出なかった。
勝と3歳上の兄は、3畳ほどの納戸の中で声を潜めながら、時が過ぎ去り、その日の宴会が終わるのを待っていた。そうして、家族全員が一つの部屋で寝泊まりする日々を送った。
嵐のような宴会が終わると、家族全員で全てを完璧に片付け、畳を二度拭きしてからでないと、布団が敷けなかった。
そうしてようやく全員分の布団をしき終わると、疲れ果てた家族は、倒れるように雑魚寝をするという日々をくり返していた。
そんな状態がずっと、長い間、落ちぶれた蒲田 初音鮨の日常となっていた。
「貧しい中にあっても、いつか料理人としてやってみたい」――勝がそう考えたのは、単に父をヒーローとして美化していたからだけではない。日を重ね、自分が成長するとともに、深く悟るようになった父の苦労と笑顔の背景。それを理解するにつけ、功が願っても叶わなかった“日本料理を学ぶ”ことを、いつか自分が代わりに実践したい。そして、その業で父を手助けしたい――そう思うようになったからだ。
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