その解決方法の一つが、「アクティブに遊ぶこと」だ。
若い頃には、世の名だたる成功者が「オン・オフを切り替えること」の大切さについて熱弁を振るう意味がよく分からなかったが、今になって、その大切さを痛感する。働けるようになったら、それ以上に「あえて働かないこと」がものすごく大切になる。
では、具体的にはどうすればいいのだろうか? それは、「休日に本気で遊ぶ」のである。これしかない。
僕は以前、休日にサーフィンやらスキー、登山といった活動的なアクティビティーをする人間の気持ちが全く分からなかった。休むといえば、家でゆっくり寝るとかゴロゴロしながら本を読むとかだと思っていたのだ。しかし、実はこの手のインドアタイプの休息は、肉体的な癒やしにはなっても、精神的な癒やしには時として全く結び付かない。なぜかというと、思考に余裕があるが故に、日常生活のことを考える余裕があるからだ。
積み上がったタスクの山を考えながらのゴロ寝や読書は、はっきりいって、休息ではなく、ただの自傷行為である。やってみれば分かるが、本当に苦痛以外の何ものでもない。
一方で、いわゆるレジャースポーツといわれるタイプの遊びをやってみて分かったのだが、これらはわりと熱心にやらなければならないこともあって、頭の中から強制的に仕事や私生活のことが排除される。というか、何も考える余裕などなくなる。
「“本気の遊び”は、魂を日常から飛び立たせる」のだ。
やってみて気が付いたのは、面白いほど精神的に癒やされるということだ。一種の瞑想みたいなものなのだろう。「心がリフレッシュされる」とはまさにこのことか、と、仕事やプライベートの問題が山のようにあった僕が、それらを完璧なまでに忘れられたことには衝撃を受けた。“ガチ遊び”は、身も心も非日常に置くことで、休日を強制的に“心の癒やし”へと置換させているのだ。
ガチ遊びはレジャースポーツでなくても、強制的に“頭を占領する”遊びを見つけられればいい。レジャースポーツの本質は、「精神の強制的な乗っ取り」なのだから、各人に合うそういう遊びを見つければいいだけの話である。何事も、本質を捉えることが大切だ。
結局、僕にとっての「アクティブな遊び」は、幼い頃から慣れ親しんでいたテレビゲームが一番フィットした。これに没頭するのが一番心が癒されるし、休日は無理やりにでもこれをやる時間を作ろうと心に決めた。
長期休暇には、本当にたくさんのゲームをした。フリーソフトの シューティングアクションRPG「ピトロクス・ギア」、Nintendo Switchの「Katana ZERO」に「スーパーマリオ オデッセイ」。いずれも素晴らしい作品で、全てを忘れて久々に心の底から”遊ぶ”ことができた。
興味深いことに、心が疲弊している時にゲームはものすごく楽しいのだけど、徐々に回復してくるにつれて、あんなにも面白かったゲームが自然と退屈になってくる。そして「日常に帰りたくなる」のだ。
これが実に面白かった。思い起こしてみれば、かつての義務教育時代には夏休み終盤になると学校に行きたくなったりしたものだが、日常と非日常はシームレスに退屈さでつながっていたのである。遊びも、徹底すると退屈を感じ、「日常に戻ってもいいか」なと思うようになるのは、かなり新鮮な学びだった。
人は本当に簡単に疲弊する。そして一度疲弊すると、それを取り除くのは本当に本当に大変だ。働くのも大切だが、それ以上に「積極的な遊びを強制的に自分の習慣の中に取り入れることも大切になってくるのが、中年以降の人生」というのを痛感している。
現代社会は本当に忙しい。放っておくと、タスクが山のように積み上がり、その重さにつぶされてしまう。今回の疲弊は大変だったけれど、休日は日常生活のことを完全に考えられないような「全てを忘れて本気で遊ぶ時間」を設け、それができるような形に日常を逆算して組み上げるということの大切さを知ることができた点で、まぁ「塞翁が馬」だったのかな、と思う。
僕にとっての令和の幕開けは、「ガチ遊びの学び」とともに始まった。休日は仕事を絶対にせず、私生活のことを無理やりにでも忘れるのだという強い意志を忘れずに、この時代を心を壊さずに駆け抜けていきたい。
みなさんも、良い“ガチ遊び”ライフを!
都内で勤務医としてまったり生活中。
趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。
twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように
noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→https://note.mu/takasuka_toki
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