新幹線を水没から救え――1967年7月豪雨「伝説の戦い」が伝える教訓杉山淳一の「週刊鉄道経済」(3/6 ページ)

» 2019年11月01日 07時00分 公開
[杉山淳一ITmedia]

1967年7月豪雨、大阪運転所鳥飼車両基地で何が起きたか

 当時の様子を記した書籍がある。『新幹線安全神話はこうしてつくられた』(日刊工業新聞社、2006年)、『東海道新幹線 安全への道程』(鉄道ジャーナル社、2014年)。著者はどちらも齋藤雅男氏。当時の国鉄東海道新幹線支社運転車両部長だ。そしてもう1冊、A氏からは「大阪車両所30周年記念誌」をご提供いただいた。これらの資料をもとに、当時の様子を追った。

 大阪近郊で広大な車両基地を確保できた理由が「湿地帯」。淀川の遊水池として残されていた土地だ。隣接する安威川は天井川といって、地面より川の水面のほうが高い。大雨が降れば車両基地に水が大量に流れこむ。そこで河川の改修計画が進んでいた。

 一方、毎年6月に車両退避訓練を実施していた。これは鳥飼車両基地(大阪運転所・大阪保線所)だけではなく、東京総合指令所、新大阪駅、京都駅、大阪電気所が一体となり、列車課長の指揮で行われた。

 しかし、皮肉なことに、河川改修前に大雨が降った。後に「昭和42年7月豪雨」と記録される。死者351人、行方不明者18人、負傷者618人、住家全壊901棟、半壊1365棟、床上浸水5万1353棟、床下浸水25万92棟などの大水害だ。

 この年は台風が多かった。7月2日、マリアナ諸島の西で台風7号が発生。8日までに熱帯低気圧となったものの、五島列島付近まで到達した。一方、台風8号は九州の南に到達。この2つが梅雨前線を刺激して、8日ごろから西日本は大雨となり、大雨警報が発令された。大阪市北部に300ミリの予測だ。大阪保線所が監視体制に入った。

昭和42年7月豪雨の天気図(出典:気象庁

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