新幹線を水没から救え――1967年7月豪雨「伝説の戦い」が伝える教訓杉山淳一の「週刊鉄道経済」(5/6 ページ)

» 2019年11月01日 07時00分 公開
[杉山淳一ITmedia]

戦いは終わらない――翌日から定時運転

 しかし、戦いは終わらない。本線に上げた列車を翌日には定時運転させる必要がある。だが鳥飼車両基地は水位1メートルを超えている。使えない。上り本線に車両があれば、新大阪駅午前6時発の「ひかり2号」が発車できない。そこで、待機中の車両をそのまま京都駅まで走らせて、京都駅で進行方向を変えて下り本線に入れて、順次新大阪駅に回送した。13番目の編成が京都駅を折り返した後、上り本線が開通。東海道新幹線は、乗客から見れば何事もなかったように定時運転を始めた。

 この一部始終を、齋藤運転車両部長は東京総合車両センターで見守っていた。大雨の待避作業の間、東京は満天の星空だったという。

 鳥飼車両基地の浸水は夜明け前に引き始め、午前中には消えた。ここで新たな問題か起きた。車両基地内の電動転てつ機、レールの分岐器を動かす装置が、34個全て壊れていた。このままでは今夜も鳥飼車両基地は使えない。だからといって、また車両を本線に置くだけでは済まない。当時、新幹線車両は48時間ごとに法定点検を実施すると定められていた。点検予定の車両が基地に入れない場合、待避させるだけではなく、半分の車両は翌日に営業運転できない。東京運転所に点検機能はなかった。

 大阪の他の車両基地の予備を集めようにも、各地も水没で機器交換が必要だった。そこで、東京地域の予備転てつ機を集めて大阪へ送ることにした。しかし、当時はまだ東名高速道路が開通していなかった。当日中に全て大阪へ送るなんて無理だ。そこで齋藤氏は奇策を思い付く。新幹線の臨時列車を急きょ設定し、新幹線車両で電動転てつ機を大阪へ送り込んだ。最近はJRも大手私鉄もホームドアを設置する駅へ、電車で機械を運んでいるけれども、当時、電車で設備を運ぶという発想はなかった。

 午前11時30分。東京の新幹線車両基地で機械を載せた電車は、時速210キロで大阪へ向かい、午後3時前に鳥飼車両基地に到着。東京から作業員も同乗させて、水害処理で疲弊した職員に代わって次々と機器を交換していった。その後、いつもと同じように運行を終えた車両たちを受け入れた。もちろん当日も翌日以降も定時運転だ。乗客たちが知らない間に、職員たちは戦っていた。

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