“辺境の密造酒”スコッチ・ウイスキーが世界を制した訳――「資本主義の酒」の歴史的マーケティング「伝統とこだわり」をどう確立したのか(3/7 ページ)

» 2019年12月27日 08時00分 公開
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「家庭で酒密造」が日常だった?

 前述の通り、産業レベルでウイスキーを作ろうとすれば莫大な設備投資が必要です。しかし自家消費レベルの小ロットであれば話は変わります。

photo グレンフィディック蒸留所のポットスチル(単式蒸留器のこと。英ダフタウン、著者撮影)

 例えばあなたも、スーパーで売っているリンゴジュースと製パン用ドライイーストだけで、ワインやシードルを作ることが可能です(※素人が作っても不味いうえに違法なのでやらないように)。それを東急ハンズ等で売っている卓上サイズの蒸留器で蒸留すれば、アップルブランデーが作れます。

 当時のスコットランド人にとって麦芽は(私たちにとってのリンゴジュース同様に)身近な食材だったでしょう。それで自家消費レベルの蒸留酒を造ることも、ごく自然な日常の一端だったはずです。

 誤解を恐れずにいえば、ぬか漬け作りに課税されるところを想像してみるといいかもしれません。趣味として、あるいは食生活を豊かにするために自家製のぬか漬けを作っている人は珍しくないでしょう。しかし、もしも政府がそれに課税すると決めて、一般家庭でのぬか漬け作りを禁じたら、あなたのぬか床は「密造設備」になってしまいます。

 お酒――アルコールを含んだ液体――を作るだけなら、さほど複雑な技術は必要ありません。現代日本の私たちが酒の密造に手を染めないのは、違法であることはもちろん、自分で作るよりも美味(おい)しい酒が、極めて安価で手に入るからでしょう。

 もちろん時代が下ると、大規模な密造を行って金儲(もう)けをする業者も現れるようになりました。なかでもグレンリベットの谷で作られる密造酒は、大変な美酒であるとして有名になっていきました[12]。

 その一方で、政府の許可を得てウイスキーの生産を行う業者がいたことも強調しておきましょう。蒸留所は地域経済の中心として、スコットランドの田舎では重要な存在になっていきました[13]。地元の農夫にとっては、自らの育てた大麦をウイスキーに加工することで、付加価値を付けて売ることができます[14]。廃液は家畜の飼料として利用できます。さらに蒸留所そのものが労働力の受け皿になっていました。

 1823年の酒税法改正によりウイスキーの製造方法は大幅に規制緩和されると共に、密造に対する厳罰化が行われました。結果、密造業者の多くが免許を取得し、認可蒸留所が爆発的に増えることにつながりました[15]。

 その後も密造が完全になくなったわけではありません。が、先述のグレンリベットの谷では、1826〜1827年ごろには密造業者がいなくなったとされています[16]。この税制改正により密造が大幅に減ったことは間違いないでしょう。1823年は「密造時代の終わり」と言えそうです。

 一般的に、産業革命は1733年のジョン・ケイによる「飛び杼(ひ)」の発明から語られます。1760年代にはジェニー紡績機や水力紡績機、ワットによる蒸気機関の改良など、産業革命を象徴する発明が次々にもたらされました。また、この時代は英国内で運河網が整備された時期でもあります。1758〜1803年の期間には、毎年平均3本の運河が新規に計画されました[17]。

 新しい技術と流通網が整備されて、力強い経済成長がいよいよ始まろうとしている――。

 そんな時代に、スコッチ・ウイスキーは密造酒であることをやめ、表の世界に躍り出たのです。

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