“辺境の密造酒”スコッチ・ウイスキーが世界を制した訳――「資本主義の酒」の歴史的マーケティング「伝統とこだわり」をどう確立したのか(5/7 ページ)

» 2019年12月27日 08時00分 公開
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国を挙げてスコッチ輸出を支援

 とはいえ1880〜1890年代になっても、スコッチ・ウイスキーの海外需要の大半はオーストラリアでした[26]。つまり、大英帝国の国内で消費されていたことになります。イギリス国外でのスコッチの人気が伸びたのは、ブレンデッド・ウイスキーのメーカーが熱心に市場を開拓したからに他なりません[27]。

 20世紀の前半は、スコッチ・ウイスキーにとって逆風の時代でした。

 第一次世界大戦中にはイギリス国内で禁酒ブームが起き、とくに樽熟成をしていないウイスキーが心身に毒だとして槍玉に挙げられました。そこでウイスキー業界の提案した折衷案が、「3年以上の樽熟成を法律で義務付ける」というものでした[28]。この規制は現在も残っています。

 また、1920〜1933年の禁酒法時代には、アメリカという重要な市場を失うという事件もありました。

 しかし1939年の第二次世界大戦開戦までに、スコッチ・ウイスキーはイギリスの重要な輸出品目という地位を得ていたようです。大戦中の物資不足により、1942年には全ての蒸留所が閉鎖された[29]にもかかわらず、終戦後には外貨獲得手段として注目されたのです[30]。戦後のヨーロッパ諸国は、どこも財政難に直面しました。イギリス政府は国内での販売数量を制限してまで、スコッチ・ウイスキーの輸出を奨励したのです。

 こうした国を挙げての応援と、何より(ファンとしてはこう言いたいのですが)美味しいお酒だったがゆえに、スコッチ・ウイスキーは世界中で人気を得ていきました。

 とくに日本人の舌には好まれたようで、1970〜1974年には日本が世界第2位の輸出先となりました[31]。日本では1920年代から国内でもウイスキーが生産されるようになり、1980年代には「国民酒」と呼ばれるほどになりました[32]。

スコッチはなぜ「画一化」を免れたのか?

 スコッチ・ウイスキーが現在のような人気を得るまでの歴史を駆け足で見てきました。

 ここで、冒頭の疑問に戻りましょう。

 産業革命の時代に「表の世界」に躍り出て、巨大資本の傘下で発展してきた――。そんなスコッチ・ウイスキーが大量生産の画一的な製品にならず、豊かな個性と伝統を守ることができたのはなぜでしょうか?

 また、歴史をふり返ると、もう1つ大きな疑問が浮かびます。

 19世紀半ばにスコッチ・ウイスキーの「樽熟成」が一般化したのはなぜでしょうか?

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