なぜ鉄道会社が遊園地を経営したかといえば、鉄道の誘客のためであった。その先駆者は箕面有馬電気鉄道(後の阪急電鉄)が開業した「宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)」だった。同社の専務だった小林一三は、鉄道の経営を安定させるため沿線の土地を開発した。まず住宅の月賦販売を始めて、宝塚〜梅田間の通勤需要を創出した。会社が休みの日の乗車機会創出のために都心に百貨店を作り、こうした需要と逆方向の乗客を増やすため、学校の誘致や行楽施設を作った。
小林一三が発明した「鉄道建設予定地周辺の住宅土地を先行確保し、鉄道開通後に付加価値を付けて販売する」という手法は、他の鉄道会社の手本となった。併せて、都心の百貨店、逆方向の行楽施設という手法も模倣された。綜合ユニコムのランキング3位の「ひらかたパーク」は京阪電鉄が開業し、現存する遊園地としては最も歴史が長い。
このほか、関西では近鉄が「近鉄あやめ池遊園地」「生駒山上遊園地」、阪神電鉄が「甲子園阪神パーク」、南海電鉄が「みさき公園」、山陽電鉄が「須磨浦山上遊園」を運営した。このうち「近鉄あやめ池遊園地」は2004年に閉園、「甲子園阪神パーク」と「宝塚ファミリーランド」も03年に閉園した。
関東では「兎月園」が戦時中に農地化され、戦後に復活できなかった。京王遊園は1971年に閉園、多摩川園は79年、谷津遊園は82年、二子玉川園は85年、向ヶ丘遊園は2002年にそれぞれ閉園した。
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