プロ野球の名将・野村克也監督が2020年2月にこの世を去った。ヤクルトスワローズを3度日本一に導いた手腕は今も色あせることはない。その卓越した理論と、人間の本質を見抜いた指導法は、野球というスポーツにとどまらず、ビジネスパーソンにとってもリーダーシップや部下育成の方法などの分野で応用可能なもので、まさに後世に残すべき知的財産ともいえるものだろう。
その野村の「遺言」ともいえる著書が、元プロ野球選手の江本孟紀との共著『超一流 プロ野球大論』(徳間書店)だ。野村と江本が対談する形で、両氏のプロ野球界についての持論が展開されている。そして「名伯楽とその愛弟子(まなでし)が令和に遺す、最後のプロフェッショナル論」と銘打たれている通り、組織の上司と部下の在り方にも一石を投じる内容だ。
野村の愛弟子は多くいるものの、江本は野村が監督兼選手だった南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)時代から(ピッチャーとキャッチャーのペアである)バッテリーを組み、50年間以上にわたって親交を深めてきた。生前の野村を誰よりも良く知る江本孟紀にインタビューし、「上司」としての野村がいかなる存在だったかを聞いた。
前編では、江本が見る野村監督の人材育成の手法を紹介した。後編では、野村監督の組織マネジメントの在り方を聞く。
――野村監督の組織マネジメントについてお聞きします。野村監督の組織づくりは、その時々で違いはありましたか?
監督兼任選手だった南海時代と、監督専任となったヤクルト時代とでは、組織作りにも大きな違いがあったように思います。まず南海で監督をしていたときは、監督とキャッチャー、そして四番打者を兼任していました。盛んに「シンキングベースボール」と言っていましたが、それはドン・ブレイザーというヘッドコーチの理論をもとにしていたからなんです。だから野村監督が「シンキングベースボール」を発明したわけではないのです。
南海時代にはブレイザーという名参謀がいたので、作戦面はブレイザーが立てていました。野村監督自身も、ブレイザーの教えを吸収し、その後に解説者として理論を体系化したことが、のちのヤクルトスワローズの監督就任、そしてのちに言われる「ID野球」の成熟につながったのではないかと思います。
今の時代はなくなりつつありますが、南海時代は、(野村監督は)チームメートの「男気」というものを喚起させるような存在でした。「野村監督を男にしないといけない」という意識が芽生えて、組織がまとまるんです。
たとえ選手間で仲が悪くても、「(監督で四番でキャッチャーをしている)大変な仕事しているのを助けるのが、俺達の心意気なんだ」と思わせる存在でした。それで実際に優勝することもできましたし、その原動力は「人情」そのものでしたね。
――野村監督が人情によって組織をマネジメントしていた時期があるとは意外でした。
当時の野村監督はすでにベテランの域で、肩も弱く、キャッチャーフライも落とすことがあるような状況でしたが、「監督を男にしたい。そのために俺たちがどうやってカバーするか」という気持ちで選手たちはやっていましたよね。
人って、上司から「やれ!」って言われたところで、それだけでうまくいくわけがないんですよ。選手たちが一生懸命になって、「この人のために」「このチームのために」って、カバーしようと思わせる感情が自然に湧き出てこないと。
われわれは「恩義」を感じながらプレーをしていました。だから監督と選手の関係は良かったですよ。選手同士では、仲の悪い人もいましたけど、試合になると団結していました。そういった意味で、野村監督には「求心力」があったということです。現代の組織論では、チームが1つになるために、選手同士も仲良くしないといけない風潮ですが、当時のチームは野村監督の求心力でまとまっていたということです。
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