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江本孟紀が語る「野村克也の組織マネジメント」野村克也と江本孟紀『超一流』の仕事術(3/5 ページ)

» 2020年05月31日 08時00分 公開
[瀬川泰祐ITmedia]
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「外向きの姿」と「内向きの姿」

――野村監督は「褒めて伸ばす」指導法だったそうですが、実際にはどのように指導しながら組織を作っていたのでしょうか?

 野村監督には、「外向きの姿」と「内向きの姿」があるんです。よく語られる「野村監督の人生論」などは完全に外向きの姿なのです。実際の指導では、「どれだけ選手同士で競争をさせるか」。実は、チーム内では選手同士で競争をさせていたんですよ。

 ただ、外向きの言葉を話して、(チーム内に自分との)バリアを作ることが天才的にうまかった人です。南海時代は、そのようなことは一切なかったですが、監督専任になってからは、自分の中に理論がないとダメだと思ったのでしょう。だから世間に対して「自分が理論派だ」と思わせていく。そして自分の選手時代の成績をひけらかさない。そのプロデュースが野村監督は本当にうまかったですね。

 私は現役時代、そしてヤクルト・阪神・楽天で監督をしている野村監督の姿をずっと見てきましたが、あれほどうまく「バリア」を作った人はいなかったと思います。(会見などで)選手のことをいろいろ言っていましたが、あれはあくまでも「外向き」を意識していること。力がある選手はどんどん試合に使い、逆の場合は落とす。それがはっきりしていた監督でしたね。

 選手を納得させるためには、理論やバイブル的なものが必要だったからこそ、それをうまく作っていったのはないでしょうか。

――選手を納得させるような言葉は、普段の会話にもあったのでしょうか?

 選手の立場としては、「外向き」の発言が情報として入ってくるので、(メディアなどの)「外の力」が怖くなるんです。「野村監督はこう思っているから逆らえない」と思わせる。その外堀を埋めるのもうまかったです。結果的に、選手は仕方なく(野村監督の)理論を聞いてあげないといけない。結果的にはその方法でヤクルトでは成功することができましたよね。

――一方で、江本さんは『超一流 プロ野球大論』でも触れられていますが、阪神時代に「ベンチがアホやから野球がでけへん」と、当時の監督を批判して野球界から引退しました。

 南海時代に野村監督に言われていた「シンキングベースボール」が、阪神にはまったく存在しなかったんです。ただ打って、投げて、走る。それがずっと続く状況でした。いい選手がそろっているのに、こんなことをしていたらいつまでたっても巨人には勝てない。「もういい加減にしないとダメだ」と思いながらプレーしていました。

 阪神は「よそ者」を簡単には受け入れてくれない傾向がありました。結果として進歩が遅れてしまうという状況でした。チームとして一番ダメなのはよそ者を受け入れないことです。外部の意見を採り入れないこと。それが進歩を遅らせる要因なのです。

 野村監督が阪神の監督に就任したとき、「何で阪神の監督をやるんだろう? 絶対にうまくいかない」と思っていました。野村監督が「こういう野球がしたい」と言っても、それをなかなか受け入れられない組織でした。阪神は客が来て商売優先の考え方もありましたし。

 監督の「旬」もあるし、やり方と合致する場合としない場合がある。阪神時代は、チームと監督があいいれなかった。私に言わせれば、間違いだったんだと思いますね。あの野村でさえできなかったんです。

 野村監督は、結果として4球団で監督をされましたが、全部外向きのスタイルが違います。ヤクルト時代は世間に「ウケた」時代。だから多くの人にとっての野村監督は、ヤクルト時代のイメージになっていますよね。ただ、うまくいってもいかなくても、野村監督の理論は最後まで一貫していた。そこは本当にすごいことだと思います。

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